今月の特集1


 8年がかりで完成した『映画を撮りながら考えたこと』
 最終的に400ページを超える大著となった本書は、どのようにしてできたのか。
 この8年のあいだに監督が経験したことが、本書にも色濃く反映されており、それは同時に、同時代を映し出したものであるにもちがいない。
 そんな確信のもと、本書を編集した三島が、司会という形で監督に「あれこれ」訊いてみました(@青山ブックセンター本店 2016年6月19日)。

 テレビマンとしてのDNAを年々、感じるようになったという是枝監督。
そんな監督が、「映画」に対してはどのような距離をもってつきあってこられたのか?
今回は、映画監督として映画について語ってもらった。

(構成:堀香織、三島邦弘)

是枝裕和監督 自著を語る(2) 映画監督としての20年

2016.07.13更新

3日間休んだら不安になった

―― さて、本の中身にも触れたいと思いますが、本書の中で、是枝監督が「いったん映画を撮るのをやめようかなと思っていた」という告白をされたのが個人的には衝撃でした。

是枝2009年かな。しばらく休もうかなと思ったんですよね。映画興行のかたちは、いまはいろんな意味で安定したけれど、当時はフィルム上映がほぼなくなりつつあって、デジタル上映に変わる過渡期だった。映画ファンの映画を観る習慣もほぼシネコン一辺倒になり、街の単館系とかアートハウスと呼ばれる小さな映画館が全国的に潰れはじめていったんです。

 僕の作品でいうと、『歩いても 歩いても』(2008年公開)までは大きな配給会社を入れずに、アート系の配給会社と組んで、1億円くらいで製作した映画を、アートハウスで8〜10週間ロングラン上映してもらう。それを、全国の映画館主の顔の見える映画館でつないで、50〜60館で公開していくという、1990年ごろ〜2000年代半ばまで主流だったインディペンデント映画の規模とかたちに乗っかっていたわけです。それで回収できると、本当に幸せでした。

 でも、そのころから回収できなくなってきたんです。アートハウスに人が来なくなるのと合わせて、口コミが広がらなくなり、結果的に公開した映画が8週間もたなくなってきた。生臭い話をすると、『幻の光』のスタートは渋谷シネ・アミューズ単館で、12週か13週間公開して、その劇場だけでも興行収入6,000万円でした。いまは4週間か、長くて6週間で終わりですよね。たとえばシネコンで公開して、2週目で上映回数が減って、4週目で回収できなければ終了。上映のスパンがずいぶん変わって、簡単にいうと赤字が続くようになったんです。

―― そうですか......。

是枝それからもうひとつ、僕の映画を物心両面で支えてくれていた、エンジンフイルムのプロデューサーの安田匡裕さんという方がいたんです。精神的にも父親のような存在で、ずいぶんと甘えさせてもらった。僕と西川美和というふたりの監督のオリジナルの映画が商業映画として成立していたのは、この安田さんのおかげでした。ところが2009年、『空気人形』の完成直前に突然亡くなったんです。

 細かく話すと、その時期まではテレビマンユニオンとエンジンフイルムとバンダイビジュアルに製作に入っていただいて、配給がシネカノンだった。この4社がお金を出し合って、僕と西川を支えてくれるという安定したかたちがあったんですが、安田さんが亡くなり、シネカノンが倒産したので、屋台骨がグラグラしちゃった。それでもう一度、体制を整える必要があるなと。自分が撮り続けるために自分自身の立ち位置を変えなくてはいけない、と思いました。あとは単純に安田さんがいなくなって寂しくなった。それでちょっと休んでから元気になろうとしたら、もっと元気がなくなっちゃったの(会場笑)。ワーカホリックと言えばそうなんだけど、3日間休んだら不安になっちゃって、スタッフに「俺はなんのために生きているんだろう?」とかメールしちゃって。(会場笑)「大丈夫ですか」「働いたほうがいいんじゃないですか」と返信が来ました。


新幹線と福山雅治さん

―― (笑)でも3日間は完全に休まれたんですか?

是枝休んでブラブラしようと思ったけど、そう思った時点で休みじゃないよね(笑)。それで始動したわけです。そのころの話がこの本でもいちばんおもしろいかもしれないけれど、『空気人形』が興行的にはうまくいかなかったのと、制作費で大きく赤字を出してテレビマンユニオンに迷惑をかけたので、このままテレビマンユニオンに制作費を出してもらうことはできないという状況になった。

 そんなときに、ずっと一緒に組んできた田口聖プロデューサーから「こういうのは好きじゃないかもしれませんが、JR九州が新幹線全線開通で映画をつくりたいと。監督、電車お好きですよね?」と言われたんです。確かに電車は好きだけど、タイアップ企画ってたいがい失敗するのでどうかなあと。でも、休むといって休めなくて復帰した直後だったので、話だけ聞きにいったら、なんとなくやりたくなっちゃって。「子どもが新幹線を見にいく」という話を考えて、でもそれだとラストシーンまで新幹線が出てこない。企画、通るのかなと思ったんだけど、プレゼンしたら通ったの。(会場笑)

―― それ、すごいですね(笑)。

是枝JR九州の当時の社長さんに「新幹線にはねられて人が死ぬとか、新幹線内で人殺しがあるという話でなければ、好きにつくっていいですよ」といわれて、それで『奇跡』がスタートしたんです。依頼されるもののすべてがダメなのではなく、誰と組むかによって成功することもあるんだな。それまですべて自分発でやっていたけれど、オリジナルにこだわる必要もないんだな、と思いました。自分にはない、書けない、出てこないという出会いによって意外と映画ってつくれるんだなという発想の転換があった。すごく自由になりました。だからあの映画はすごく開放的ですよね。僕本人よりもずっと明るい。(会場笑)それは、(主演の兄弟を演じた)まえだまえだというめちゃくちゃ明るいふたりに出会ったことも大きいんですが。

 しかも、撮影中にフジテレビから「福山雅治さんが会いたいと言っているんですが、会っていただけませんか?」という連絡があったんです。新幹線と福山雅治を並べるなんて、福山さんには申し訳ないけれど、自分からはオファーをしない役者さんだから、「会いたい」といってくれたことはとても光栄だったし、会ってみたら彼を主人公に書きたくなったんだよね。そうやって、外から来たものに出会って書いているというのが、『奇跡』『そして父になる』『海街diary』の3作品。キャリアとしてはひとつの転換点となったと思いますし、いい時期でした。

―― 「第9章 料理人として」にそのあたりの話がまとめられていますね。

是枝ヨーロッパの映画祭にいくと、映画というのは「映画監督という作家の著作物」だし、もちろんそういう意識がないわけではないけれど、やはりカメラの前に自分がパフォーマーとして立つわけではないから。カメラを向ける相手をひとつの素材として捉えて、彼・彼女の魅力をどのように引き出すか、どういうシチュエーションを与えるか、どういうセリフを書いていくかを考えていく。そしてこの素材をどのような素材と組み合わせたらいいかを考えることは、旬の食材を使って美味しい料理をつくることと似ているんじゃないかなと思ったんです。職人を作家の下に置く考え方はあまり好きではなくて、むしろ監督がスタッフやキャストのいちばんいいところをどう引き出すかだと思うし、そういうことができる監督になりたいと思っています。


作家が作品をいちばんわかっているわけではない

―― 是枝監督の映画は「グリーフワーク(喪の作業)」というのが創作の原点として存在すると思いますが、これは気付いたらそういうテーマに引き寄せられていたということですか。

是枝そう。意識していたわけでもないし、グリーフワークを勉強したわけでもない。デビュー作の『しかし... 〜福祉切り捨ての時代に〜』というドキュメンタリー番組も、生活保護切り捨てという非常に社会派の番組をやろうと思っていたら、若いころに生活保護行政にたずさわり、現在は水俣病患者訴訟を担当しておられた環境庁の役人が自死したというニュースをたまたま知ったんです。福祉に従事してきた人間が自死を選ばざるをえないという状況があると知ったことで、番組の趣旨自体が変わった。それで、夫を自死で失った奥さんの取材がメインになってしまった。

 次に撮影した『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』も、「牛を育てて、種付けをして、乳搾りをしたい」という非常に前向きないい話を撮ろうと思って通っていたのに、死産しちゃったんです。でも母牛からは乳が出る。それで子どもたちは仔牛の葬式をして、わんわん泣いて、でも母牛の乳を絞らないとたいへんだから、乳を絞る。「悲しいけれど、牛乳は美味い」という複雑な状況になってしまった。でもその状況に置かれたとき、確実に子どもは成長していた。顔つきもそうだし、書く作文や詩も豊かになっていった。間近で見ていて、とても美しいなと思ったんだよね。それでグリーフワークの本を読んだり、映画を観たりはしましたが、最初はたまたまなんです。いまはそれだけをやるつもりはないけれど、やはり「遺された人の話」というのは好きなんだと思いますね。

―― この本にもロシア人の記者から「是枝監督の映画はいつも遺された人を描いている」と指摘された話を書かれていますね。

是枝自分の初期の映画がヨーロッパで公開されて、ずっと「死と記臆の作家」というような言われ方をしていたのね。「DEATH & MEMORY」というコピーの下に顔写真が入って(会場笑)、厭だなあと。

―― デスアンドメモリィ......

是枝『誰も知らない』のときだったか、ロシア人の記者がカンヌ映画祭で「君は死と記臆の作家だとかいわれているが、そうではないことを僕は発見した。君は後に遺された人を描いている作家だ。気付いてないだろう?」と。ちょっと偉そうなんだよね。(会場笑)

 外国のジャーナリストは、相手が作家だからって下手に出ない。「私はあなたの映画を見てこう捉えたけど」とはっきりいう。もし僕が「そうじゃない」といっても、「君がそうではなくても僕は構わない」と。後に遺された人を描いているというのも「使っていいよ」みたいな。それでずっと使わせてもらっています。(会場笑)

 今回の『海よりもまだ深く』でいうと、フランスの記者から、「映画『奇跡』では火山、今回の映画では台風という自然災害が描かれているが、物語のなかで果たしている役割は違うか?」と訊かれたんです。すごい質問だよね。そんなこと考えてもいなかったけれど、違うわけですよ、考えてみると。それで、僕はうまく言葉が見つからなかったんですが、同じ記者か違う記者が「今回の自然災害は浄化だ」と。いろんなものが浄化される。それは風景もそうだし、人間もそうだというわけ。「浄化」という言葉は、僕はパンフレットでもインタビューでも一度も使っていなかった。だからいまは映画のテーマを聞かれたら「浄化です」と、自分の言葉のように使っています。(会場笑)

 日本の場合は、作品というのはつくった人間がいちばんわかっていると思う傾向が強いですよね。でもそういうわけでもなくて、相手から指摘があって気がつくこともある。そのやりとりのほうが健全というか、生産性がある。答え合わせを求められると、自分のわかっている範囲を抜け出ないですが、そういう気づかされる取材の場合はとても素敵ないい時間です。

(つづきます)

   

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是枝裕和(これえだ・ひろかず)

映画監督、テレビディレクター。1962 年、東京生まれ。早稲田大学卒業後、テレビマンユニオンに参加。主にドキュメンタリー番組の演出を手がける。1995 年、『幻の光』で映画監督デビュー。2004年、『誰も知らない』がカンヌ国際映画祭にて史上最年少の最優秀男優賞(柳楽優弥)受賞。2013 年、『そして父になる』がカンヌ国際映画祭審査員賞受賞。2014年、テレビマンユニオンから独立、制作者集団「分福」を立ち上げる。最新作『海よりもまだ深く』は2016年5月公開。第8回伊丹十三賞受賞。著書に『雲は答えなかった 高級官僚 その生と死』(PHP文庫)、『歩くような速さで』(ポプラ社)、対談集に『世界といまを考える 1、2』(PHP文庫)などがある。

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