ヒゲが濃いせいで憂鬱な日々を送っていたが高校の文化祭で『美女と野獣』をやりベル役の子と付き合うことになった男の後日譚。
僕らは60を超えて危機に瀕していた。現実というものはディズニーのおとぎ話なんかじゃない。永遠の愛を打ち砕くこともある。
2人の子に恵まれ幸せな日々を送っていたが、僕と妻の間には、交際した期間分の澱のような倦怠感がフワフワただようようになった。
ある朝、起きると妻が消えていた。テーブルの上には、置き手紙があった。『しばらく田舎に帰ります。心配しないでください。』
僕は、高校時代の文化祭のDVDをセットして、缶ビールを飲みながら見た。怖いものなんてなかった。二人とも若さで輝いている。
ずっと思ってた。『野獣』というあだ名をつけられた僕となぜ、クラスのマドンナだった妻が付き合い、結婚してくれたのだろうか?
翌朝、何もなかったようにキッチンで朝食を作っていた妻を後ろから抱いて聞いた。
「君はなぜ、僕と結婚してくれたんだ?」
「ベルは、野獣にそう約束したわよね?何があってもあなたから離れないって」
『美女と野獣』のラストを思いだした。
妻は僕の腕をやさしくほどき振り向いた。
「私の中身をちゃんと見てくれたからよ」妻
「中身を?」僕
「うん」妻
「変な子だったよ」僕
妻は、ひどいわね、とカラカラ、笑った。
「ねぇ、あの時、なぜあなたがクラス中の男子から蹴られたか、知ってる?」妻
僕は首を振った。妻は微笑んでテレビのあるリビングのソファに僕を座らせた。ラストのダンスシーンが終わりを迎えるとき、
妻はリモコンで、画面を止めた。
「きづいた?」妻のいたずらっぽい微笑。
つきあってこの42年間、これは事故だと思っていた。ラストのダンスシーンで一瞬、ベルの唇が、野獣の頬に触れている。なんで?
「あなたの剃刀負けした血に接吻したの」
かつてのベルはかつての野獣にそう言った。
「私がベルを演じたのは貴方目当てなの」
そう言って、妻は優しく僕のヒゲに触れた。
冷たい指が僕のヒゲをじょりじょりなでる。
その指から僕は妻の愛情を確かに感じた。
僕はヒゲが濃い、でも、誰より幸せ者だ。
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