たぶん、たいていの日本人より、私は日本政治に詳しいはずだ。専攻は政治学だったし、仕事を始めてからも結構長い期間、選挙や行政を間近に見てきた。日本のメディアで、地方も規模もまったく異なる3県政の取材を担当したことがある記者はほとんどいないはずで、そういう意味では警視庁担当の社会部記者であった池上彰さんよりも詳しいことになる。誰かさんが「知事クラッシャー」とあだ名をつけていたが、私が担当した県知事はみな、自らの意に反して辞める羽目になる、という不思議なジンクスがあり、出直し選挙やら定例の国政選挙やら、選挙には縁があった。出口調査とか、開票所で双眼鏡でサンプル調査する「バードウォッチング」の黎明期からずっと選挙取材しているので、統計理論に基づく取材技術の進化も体験している。出口調査がどれほどまでに当たるかと言うことも。。。ついでに言えば、特派員になったので、(複数の)海外の選挙も真剣に分析する羽目になった。
というわけでたまに、議論を持ちかけられることがある。政治ウオッチャーなのだから意見を持っていないはずがない。ただ、「何党が好きか」とか「この政策が○だから(あるいは×だから)○党に入れるべきだ」という議論にはどうにも食指が動かない。床屋の隣の席で(いまは床屋に行かないからそういう会話もないのか)にやにやしながら脇で聞くから床屋政談なのであって、酒の席やフェイスブックでそういう話を延々と聞かされると白ける。まして「けしからんマスコミが~」みたいな話になるともう駄目である。
なぜかというと、そういう議論にはあまり本質的な意味がない、と思っているからなのだろう。
選挙というのは「約束」であると思う。
何党が公約を守るとか破ったとか、そういう話ではない。制度設計はいろいろあるが、日を決めて全国民が投票し、秘密無記名、1人1票で、きちんと箱を開けて数え、出された結果には不服であっても暴力に訴えずに各勢力が従う、という「約束」である。
当たり前のように見えるが、世界全体として見れば、この「約束」が守られている国は、人口ベースでは多数とはいえない。比較政治学の基本テキストに書いてあったように思うが、人口の多い中国に選挙がないことが大きく効いている。人口増が続く中東・アフリカの多くもそう。選挙があっても「競争的でない」という点で言えば、大国であるロシアやイランも多分含まれる。インドに競争的選挙があることがとりあえず救いである。人口ベースで見ると、インドの存在は権威主義レジームと民主主義レジームの世界戦争において、相当な貢献を果たしているわけだ。
そういう意味で、日本ではこの手続き上の「約束」がとりあえず守られている。生データを見た経験から、出口調査が恐ろしいほど当たっているということからも、開票が統計上正確に行われており、この「約束」が守られていることが分かる。*1
選挙とは統計そのものであり、だからこそいまどきの政治学が急速に数理モデル解析に向かっている理由でもある。いまどき陣営取材だけで当確を打つ会社なんてないし、陣営のベテランよりもメディアの方が正確な当落予測ができる時代になった。(ただし膨大な人件費がかかるのでいつまでも続けられないので、その後はSNSの書き込みなどからのビッグデータ解析の時代が来るかもしれない)
政策がどうこうというのは。そこまで行きついた上で、なのだ。
子どものある人、ない人、老人、若者、金持ち、貧乏な人、シングルマザー、もともとそれぞれに利害は異なる。だから、「制度はきちんとしています。あとはそれぞれの利害や好みに応じて入れてください」というのが(政治学徒の)基本的な態度なんじゃないかと思う。*2投票率がというけれど、本当に重要だと思うなら、みんな投票に行くものだ。ミャンマーで今年実例があったばかりである。
ここで言う政策には、もちろん憲法改正の是非も含まれる。外交とか国防という話は、自国だけで決められるものではなく周辺状況に依存するので簡単ではないのだが、もともと国防費というのは、雇用に資するとか防災面もあるとかいろいろ言いつつも、公共投資としては乗数効果がまったく期待できない分野なので、海外植民地が獲得できる状況でないのであれば、経済的には「自国の安全が守られる限りにおいて」最小化するのがベストである。
日米安保という集団的安全保障に依存し、防衛費を世界的に見て低いレベルに保ってきた日本の自民党政権の安全保障政策は、その意味で(日本経済にとって)おおむね妥当だった。米ソの冷戦が終わった後、欧州内で軍備を増強した国が存在しなかったという事実からしても、それは裏付けられる。その過去に対する肯定的評価を共有するという意味で、わたしは保守主義者である。
さて、ここで微妙なのは「競争的選挙、しばしば政権交代」という非効率な(民主主義とは非効率なのだ)制度をアドバンテージととらえるかディスアドバンテージと捉えるか、という点でも議論を持ちかける人がいるという。これは簡単なようで案外難しい。
最近は「国の安定」とか「決める政治」というのがはやっているから、プロセスはともかく速く進めないと「バス(経済競争?)に乗り遅れる」という煽りがあるからね。あおりが利いている時点で、日本国民の中に、そこはかとない焦りがあるというのもうかがえるのだが…。
非民主主義国のいくつかに住んだ経験でいえば、「約束」が守られるというコンセンサスが成立している効用とは、クーデターや、天安門事件のような大規模デモによる流血といった国内的、国際的コストを大きく下げることなのだと思う。民意を得ている間は政権にいるけれども、多数派の賛成が得られなければ下野するという「約束」を形によって保障するのが、競争的選挙制だから。
だって、約束ができない、守られないというなら、暴力(テロ)に訴えるしかないからね。アラブの春が、多くの西側(先進国)市民の期待を裏切る結果に終わったのは、「約束」に対する信頼が、軍を含むそれぞれの政治的アクターの中にコンセンサスとして定着していなかった、ということなんだろう。クーデターやデモの武力弾圧といった事態は、確率としては低いけれども、政治経済上のリスクとしては非常に大きいし、デモに参加するのは多くの場合将来がある若者だ。経済制裁とかもあり得るし、何よりも国の「格」を下げる。
日本のソーシャルメディアを見ていても、「投票の改ざんがないか心配だから油性マジックで書く」という人がいたそうだが、ちょっとした途上国に行けば、同一人物の二重・三重投票や物理的に投票箱を持って行くとか、候補者を殺すとか、票を焼いてしまうとかいくらでもあるわねえ。日本でもどの人が当選するかで公共事業や公務員の人事をめぐり経済的死命を制する離島の選挙などは、すごいことになってきたのが日常だった。
少なくとも、日本の国政選挙ではいま、そういうことをする人はいないと”右から左”まで皆が思っている。これは相当に進化した、というか”安定した”段階だといえるのではないか。
もう一つ感じるのは、競争的選挙は、ある程度まで政治的腐敗を抑制する効果があると思われる。昭和の時代といえば、与党政治家はさまざまな形態で賄賂を取るのが当然視されていた。地方選挙では票の買収も横行していた。*3パイの分配に政治的さじ加減が利いた成長期の国家だったこともあるが、それでも民主的選挙によって「政敵」の身分的安全が担保されることは、腐敗に対するけん制効果を呼んできたと考えられる。地検特捜部が思い切った捜査をしてくることができたのは、民主主義レジームがかたわらにあってこそだ。権力内の競争で十分ではないか(そもそも権力層が腐敗して何がいけないの?)という人もいるだろうが、まあそれはねぇ。
もう少し踏み込んで言えば、経済活動の自由と、政治的公正は必ずしも同一ベクトルにはないともいえる。企業は民主主義ではなく出資(パワー)に応じた配当を受けるのが基本であり、競争によって優勝劣敗が起きるのが基本。
これに対し政治というのは、一国である限りは、成員=全国民の効用を最大化するのが正しく、それがもっとも多数の支持を受ける、はずだが、ここに落とし穴がある。
一握りの人間が効用の大多数を取ってしまう社会は、社会不安が増大し、不安定になりがちだ。それは「科学的社会主義」が発生する前から分かっていた。たぶんそれは、企業に(定まった)寿命がないのに対し、人間には寿命があり、無限に「再チャレンジ」ができるわけではない、というところから来るのではないだろうか。
個人ががんばって競争に勝つのは本来は自由なのだろうが、人間は同時に嫉妬の生き物であって、そういう人物はシェイクスピアの時代から妬まれ、嫌われ、ボディガードがいないとおちおち街を歩けないし、実際にそういう国も多い。
図録▽世界の警察官数によると、「アングロサクソン系は自力救済の考え方からか警察官が少ないので犯罪も多くなっている(中略)日本についてはフィンランドとともに警察官が少ないにもかかわらず犯罪が少ないという理想的な状況にある」という。日本の現状を肯定的に見るか、否定的にみるか。
もう一つ言えば実際のところ、ネット上の議論で「○○すればいいじゃん。何で××しないの」という提案はすでに行政レベルで検討され尽くしていることがほとんどである。日本の公務員は、はめられた法律という固い枠の中で、相当にがんばっている。大阪都構想なんていうのもあったけれど、それぞれの政策への是非論というのは、前提となる知識も必要で、効果もあるだろうがかならず副作用もあり、制度変更に伴う費用も無視できないレベルでかかり(民主党政権の高速道路無料化や公共事業見直しなどは典型)という具合で、阪神タイガースのスタメンのように「鳥谷と西岡下げて○×出せばすぐ上位浮上~」というわけには行かないのだよ…。
在外投票で「なんで日数かかる国際郵便なのか。FAXで送れ!」という書き込みを見かけた。日本の各開票所には各候補者を代表する立会人が必ず存在し、票の束ごとに押印して票を確定させる。何のためか。それはどの陣営にも文句をつけさせないという意味での「選挙の公正」のためである。
勝手に(在外公館の)外務省職員が開封してデータを(しかも非暗号のFAXで)送るというのでは、秘密投票も何もあったものではない。だから、海外で投票した票は二重の封筒に入れ、特殊小包で送り、開けないままで各自治体に郵便で再送付し、開票のときに台上に混ぜて入れるのである。国内郵便の秘密は法で保護されている。郵政は民営化されたけどね。*4
電子投票ですら、一度の地方選挙でのトラブルで完全にお蔵入りとなり、経済効率としてはまったく無為な、手作業の開票と出口調査に基づく開票速報が行われているという次第である。システムが壊れることは滅多にないのだろうが「やり直し」ということが許されないのが競争的選挙の特性でもある。(一度選挙をやってしまうとその結果に基づいて誘導がかかるので、やり直しをした場合には2度目の投票結果は大きくゆがむ。決選投票で支持層が大きく動くのはそのためだ)
英国のEU脱退をめぐる論議でも明らかになったように、国家の成員内での再分配の論理というのも難しい議論をはらむ。同世代の個人・社会階層間の再分配がよく議論になるが、世代を超えた再分配の問題も存在しているからだ。*5高額な教育投資は親から子への(恣意的な)再分配であるし、親子間を中心とした資産相続も同様だ。ちなみに安倍政権は相続税の課税を強化しているのだが、これを日本の伝統的な保守政治の文脈の中で位置づけるのはかなり難しい。だって、自民党の政治家の大半は2世、3世なのだし…。*6
さて、というわけで、仕事でもプライベートでも偉そうなことを書いているのに棄権というわけにはいかないので、自分はいつも投票には行くことにしているのだが。。。