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猫箱ただひとつ

物語追求blog。アニメ、マンガ、ギャルゲーを取り扱ってるよ

作品批判はいらないという意見こそが要らない。そういう人々が市場を腐らせる(6679文字)

オピニオン
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 以前に、話題になっていた漫画を読みました。

 

 

各界隈でさんざん語り尽くされ、散々に批判されたこの漫画。そういえば私自身の意見をまとめてなかったで今更ながらまとめておきます。

 

 

 

 

1)作品批判はいらないという意見こそが要らないし、そういう人々が市場を腐らせる。

 

この漫画、一言でいえば「作品批判はなにも生み出さずファンの思い出を壊す」という内容ですが、この漫画こそ友人批判、ひいては作品批判批判を行っているのが逆説的に「批判」を肯定しているのは面白いところです。

(※批判は「誤った部分に論拠を示しながら指摘すること」と私は捉えていますが、当該漫画はおそらく「否定」という意味合いでしか使っていませんので本記事はこの意味も含めて使用していきます)

作品批判がなぜ大事なのかと言われれば、レベルの低い作品が氾濫する市場を作らないことだと私は思います。例えば、お金を払い映画を見たら制作の都合でフィルムが間に合わなず数分間画面は真っ白で音声だけ流れる。有名ライターが参加するクラウドファンディングに出資したら規約内容とはおおよそ別物が制作されてファンが呆れ返るといったあんまりなものから、ストーリーが事実上破綻していた、ルートの順番によって話が繋がらない、CGとテキストが合致していない、画作りが酷いアニメーション…などなど作品として頷けない所を批判しないとどうなるか?

そういう低レベルな作品が受け入れられる場所として、そこは機能していくようになります。

稚拙で未熟な作品を受け入れてくれるユーザー。穴だらけの物語にお金を落としてくれる有り難いユーザー。明らかな瑕疵を無視し「好きな人がいるんだから批判するな!」と叫んでくれる盲目的なユーザー。そうなれば制作陣も力を入れた作品をつくることもなく、半端なものを作ることになるでしょう。だってそれらを鑑賞する受容者は「なんだって」いいのですから。粗雑でゴミのような作品でも受け入れて、肯定してくれるのですから。わざわざ良い音楽、良い脚本、良い画面作りなんて意識しなくなりますよね。

そして、自ずと低レベルな作品を創作し需要する市場(Market)が出来上がることでしょう。

これは作品批判をすればそれが制作チームに届き、フィードバックし、次作品へと改善してくれる――なんてお話じゃありません。ダメなものをダメと言い、否定し批判し、お金を落とさないユーザーが多ければ、そんなユーザーに受け入れてもらえるよう創作がなされる市場が出来上がると言いたいのです。もちろん良いものを良いと言うことも大事なのは間違いありません。

私はこれが健全な市場だと考えます。少なくとも「好きな人がいるんだから批判するな!」なんて盲目的に作品肯定するユーザーがいる市場よりは健全だと思います。

   

 

 

1-1)批判精神がないファンを人はこう言うのだよ

 

「アニメリトバス批判するなんて原作リトバス好きじゃないの?」とか「Rewrite批判するなんて鍵っ子じゃないの?」とか「俺Charlotte嫌いだから鍵っ子じゃないけどCLANNADは好きだよ」というおかしな意見を未だに見かけるんですけど

鍵っ子の定義って「盲目的にkey作品を全肯定する人達」のこと言うんでしたっけ? ああそう……。

(cf.Key - Wikipedia)

こういう「ファンだったら全て受け入れなきゃいけない」みたいな歪な考え方がありますが、それはファン(=その作品が好きだと自覚する者)ですらありません。文字通りの "信者" です。悪いところに目をつむって、耳を塞いでるだけです。信じることに酔っているだけです。

 

何かを信じて覚悟することは、悪いことじゃない。

だけどその前提として、
疑問に感じ、みずから選びとることが必要だ。

でなければ、それは信じることにも覚悟することにもならない。この前も言ったように……ただ動作する機械にすぎない

 

 

――時守希/『ギャングスタ・リパブリカ

 

むしろファン(=その作品が好きだと自覚する者)ならば、「好きな作品のダメな部分を受け止めなくてはいけない」と思います。悪いところを指摘されたら、それが反論できるものならば反論して、反論できない程に自身も納得しているなら受け入れて「そうだね。私もあそこダメだ思う。」という態度でいい。

瑕疵を受け入れても尚好きでいられるほうが「その作品が好き」であることの重みが増すと思います。なにかを「好き」である担保を「全肯定」することだと履き違えてはいけません。

 

 

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もちろんその作品の「ダメな部分」は個々人の観測による所が大きいです。ある人にとってはダメな出来でも、ある人にとってはレベルが高いと感じることは多々あります。

大事なのは「自分が感じたこと」を「他者にも分かるよう言語化」することです。良いと思ったものはどこが良いと思ったのかを根拠を示して語る。悪いと思ったものはどこが悪いと思ったのかを根拠を示して語る。

「山Pでてるだけで名作!」とか「友利奈緒可愛いからOKだよ!」とか誰に伝わるんでしょう? 「主人公がキモくて駄作」とか「ストーリーが産業廃棄物」とか誰に伝わるんでしょう? 

誰にも伝わらないと思います。

作品肯定も否定も、主張するなら理由を添えましょう。その理由が他者が妥当か見積もりましょう。ファン(=その作品が好きだと自覚する者)なら尚更に、批判者であるならば尚のこと。根拠のない主張なんて(他者から見れば)無意味です。

 

そして、当該漫画に登場する友人・☓子は「自分が感じたことを他者にもわかるよう言語化」しているのです。汚い言葉を使っているわけでもないし、主人公から「☓子ちゃんはどうだった?」と感想を聞かれて答えてるにすぎません。ここを咎められる謂れはないでしょう。

ただし、主人公が傷ついているのに帰りの電車でも作品批判している☓子は気配りが出来ない人だとも思います。わざとやっているならばたちが悪い。

しかし、主人公が曖昧な態度をとって☓子の話を促し続けたのかもしれません。「そうかもねー…」とか「うん…」といったなあなあの会話をした結果が、☓子も「主人公ちゃんも私と同じように思っているのか」と受け取り語っている状況なのかもしれません。

だって良識のある人ならば、相手が嫌がっていることを続けようと思いませんもの。「相手が聞きたがっている素振り」をしているから「話している」という誰も望んでいないコミュニケーションがあそこには成立していたと考えると私は納得できます。

徹頭徹尾、自分の気持ちを話さず、傷ついても「好きな作品そういうふうに言われるのきついよ」と言うことも出来ない内気な主人公ならばそんなこともありえるように思いますから。

さらに、この漫画は主人公の「視点」で語られたものであり、上映終了後→喫茶店(?)→帰りの電車というようにものすごい早さで時間が飛ばされている演出がなされている以上――主人公の☓子への応対が描かれていない以上――☓がずっと喋っているのは主人公のコミュニケーションに問題があったと見ることもできるでしょう。

ならば、☓子のコミュニケーション能力が問題だった、とは一概に言い難いかもしれません。

 

 

 

 

1-3)「好きな人がいるんだから批判するな」→「俺が傷つくから批判するのやめて」でしょ?

 

 作品批判を――根拠なく――否定する人々の大半がこれです。彼ら自身がその否定的な語りによって傷付くからこそ見たくないしやめて欲しいと願うのです。

作品批判の「指摘は正しいか・納得できるか・妥当性があるか」を評価した上で否定するのではなく、単純に「自分が好きな作品の否定的意見」が許せないから否定するのです。存在が認められない。

なので、理由なき主張を脱却しようと(=悪い部分に論拠を示し指摘して)しっかりとした批判を試みても、今度は「評論家気取り」とレッテル張りするのがこういった繊細なガラスハートな人々です。

 

 

 ▼関連記事

なぜ「評論家気取り」という他称を彼らは使うのか?

 

 

ガラスハートな人々は、いくら的を得た作品批判でも認められません。もしかしたら「読む」ことすらしていないかもしれない。読まないまま否定しているのかもしれない。だって傷つきますから。痛いですもんね。痛いからその批判を「評論家気取り」とマウントすることで好きな作品を辛うじて肯定しようとする。

これはディスカッションの授業、立場を変えて議論する(=ロールプレイ)教育が学校で十全に行われていないからではとも思います。物事は一面的ではなく多面的だということを皮膚感覚として理解できないからこそ、自分が好きなものの多面的な姿に拒絶反応を起こしてしまうのかもしれません。コインの裏側を見る勇気がない。偉そうなこと言っている私自身十分に出来ているとは思いませんけどね。

 そして当該漫画では今語ったガラスハートな読者が、まさに主人公です。ラストで「作品批判は何も産まない」と言い切ったのも、この世から自分が好きな作品の否定的意見を見たくない気持ちの表れでしょう。

心情としては理解できますが、許容はできません。私はそれは未熟だと思いますから。

「好きな人がいるんだから批判するな!」を認めるなら、「嫌いな人がいるんだから肯定するな!」という意見も認めることになります。おかしさは一目瞭然で、こんな一方的な――妥当性がない――わがままな主張を受け入れることはありえません。

 

 

 

 

2)コンビニのカップアイス程度の好きしかなかった主人公

 

この漫画を読んで真っ先に思ったのが、この程度の批判で「自分の好きな作品が好きでいられなくなった」事自体、私からするとなにそれ?そんなことありえるの?という感じです。

誰かの批判によって好きなものを好きでいられなくなるなら、最初からそれはそこまで好きではなかったのでしょう。その程度の好きだったのでしょうね。と言いたくなります。例えるならば「友人から恋人を批判されて、悪い部分が気になり、熱が冷めて好きではなくなってしまった」というもの。これは親友でも家族でもいい。

主人公の「好き」の強度ってそれくらい低い。なにこの人、って思うもん。この人の「好き」とは一体何なわけ?と冷たい目で凝視したいもの。

でもこの類推をしても主人公はピンと来ないかもしれません。なぜなら作品を恋人に置き換えるのは、誰かを好きになるように作品を好きになった体感を知っているから理解できるものだからです。

しかし主人公の「好き」ってそういうのではなく、「みんなが見ているから好き」とか「話題になっているから好き」とか「仲間内でお喋りするための共通コンテンツだから好き」といった多人数で消費する「好き」なのかなって思います。共有型消費。

これならあの程度の批判で「好き(=私から見れば強度がめちゃんこ低い好き)な作品が好きでなくなった」状況が辛うじて理解できます。

確かに彼女は当該作品が好きだったのでしょうけど、その好きは批判されれば掻き消えるものでしかなく、批判を受け止めて反論しようとも思わなく、なにくそーこいつ!と怒りを灯すほどの好きでもなかった。というだけのことなのでしょう。

コンビニのカップアイスが好きだったレベルの好き。今までは楽しく食べていたけど、友人の食品批判によって「そう言われてみればそうかも」と最終的には納得して楽しく食べれなくなったくらいの好き。

のように私には見えるわけですね。

だから「批判されたくらいで好きじゃなくなる主人公はメンタルが弱い」という指摘よりは、「好きの種類が違う」と考えるほうが私は納得できます。

この漫画が話題になったのもここでしょう。「主人公の好きって私が思うほどの好きじゃないよね?」と言いたくなるからこそRTがRTを呼んだのでは。

そしていると思うんですよね、「作品」を「恋人」に置き換えてもピンとこない人は。

 

 

余談

・あるいは「作品が好きな私が好き」だったからこそ

→その作品を否定されればそれを好きな自分が傷つく
→自己防衛が働く
→その作品を好きになるのをやめる
→その作品が好きじゃないので傷つかない


こういうプロセスが働くのかもしれません。

 

・この漫画に「好きな作品が批判されると自分の感性が否定されているようで…」とコメントしている方もいたけど、「恋人を批判されると自分の感性が否定されているようで…」と言っているもので

やはりこういう人たちの「作品が好き」は私が思い描く「作品が好き」とは重なり合いません。

彼らがいう「好きな作品」とは、自分を飾る "アクセサリー" に過ぎないんじゃないかな。

天使のいない12月』のお話でもしますか?(しません)

 

 

 

 

 3)結局、言葉にできるやつが強いんだよ

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落書き:猫箱ただひとつ(@nekobako_)

 

例え、主人公が壊れない好きを持っていたとしても「自分が感じたことを言語化」する力が無ければ、☓子の理由を伴った否定にその想いは切り刻まれるでしょう。刀でばっさりと。

「なぜ好きなのか」「なぜ良いのか」「なぜこの作品は素敵なのか」を言葉にできなければ、自身の好きを証明することは出来ませんから。相手に納得してもらえないのです。

言語化能力が低いことはそれに留まらず、相手の批判に真正面に立ち向かうことも叶いません。言葉を持っている者と持たない者の差がここにはあり、持たない者はサンドバックになるのが通例です。あるいは「よし、この話題は終わり」と逃げるしかなくなる。

それが、どんなに辛いものか分かるつもりです。

私も作品に感じたことを言葉に落とし込むのは得意ではないし、論理的な記述も苦手で、言いたいことがいつも十全に語れていませんから。視覚優位者でMBTI診断でINFPってもう「言葉」のアドバンテージないんじゃないの?ってくらいですし、3年前に書いた『CARNIVAL』記事なんて一体誰が汲み取れるのかってくらいに伝達効率が低すぎるくらいに。

論理とはつまり「順番」なので、直線上の時間認識が薄く、大局的で演繹法で現実を理解している私はなじめないのは当然なんですよね。訓練次第でどうにでもなる部分ですが、求めている傾向が希薄のはこういう所に響いてくるわけです。*1

 

結局、言葉にできる人が作品批評において強いんですよ。

そして力がない者はそんな人達に刈り込まれるしかなくなる。それを良しとできないなら強くならないといけない、「言葉を持つ」ことをしなければいけないはずです。

あるいは友人と距離を起き、ネットも断絶するという選択肢もあるでしょう。

 

アニメを楽しく見たいなら誰かと感想を共有するのをやめればよかったのに

 

 

 

 

4)まとめると

 

この漫画は「①コンビニのカップアイス程度の好きしかなかった主人公」「②言語化能力が低い主人公」が作品批判に立ち向かえないだけのお話で、作品批判が悪いわけではないのです。

恨むべきは自身の弱さであり、問題にすべきは自身の能力です。

ラストがああではなかったら「相性」「対人」「自己/他者」の問題とし語っていたかもしれませんが、しかし「作品批判は何も産まないどころか、ファンの思い出を壊す」となっている以上(辛辣ですが)私の結論はこれです。

 

 

 

 

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