「学生時代や、会社員の時、一人で外食をできなかった」と知人にこっそり言われたことがあります。「1人で食べている自分を周りにみられるのがいや」で、最近やっとそれができるようになったそうです。その人は、私よりもずっと交流範囲が広く、社交的だったから、そう言われて、すこしおどろきました。
その方は昔いじめにあったそうです。一人でいる=仲間外れにされている=孤独 というイメージがあるので、自分が一人であることをみとめたくないのでしょう。
一人でいることを避けるための埋め合わせ
多くの人が、家族や友人と共にすごせない時は、テレビやラジオやスマホやゲームで時を過ごします。そして、その音楽や、おしゃべりが全く入ってこないような時でさえ、一人でいることを恐れるあまりに、それらを手放すことはありません。聞いてもいない音楽や、おしゃべりで時間の埋め合わせをしているようです。
これは心にとって、果たしてよいことなのでしょうか?私は疑問に思いました。
前回ご紹介した『海からの贈物』には、こんなヒントがでていました。
「一人でいることは大切である。一人でいることが出来なくなってしまった人は、一人でいる練習から始めなければならない。」
人づきあいが悪いのは「悪いこと」だと思っていた
私は、人づきあいが良い方ではなく、友達とよんでも良いのか?と思うほど、お会いする機会が少ない友人が、数人いるだけです。
ちいさなころは、野山を駆け回っていましたが、大勢のお誕生日会に招かれるのは苦手でした。たまに友達を家につれてくると、母親は「お友達になってくれてありがとうね」とその子に感謝していました。学校でも友達をつくることが素晴らしいことのように先生は言っていました。
「大学時代、遊んでばかりでしたが、その時にできた沢山の友人が私の財産です」という人もいます。「フリーランスには人脈こそが重要だ」とも言われました。
そして、以前は母から、今は夫から、同窓会や、友人の誘いに「行っておいでよ」と言われます。でも私は、たまに会う今のペースで十分なのです。子供のいない私を気遣ってのことでしょうが、小さな声で「どうぞ、私のことはお構いなく・・・」と答えてしまいます。
内心(自分は、そういうことが、うまくできないだめな人間だ)と思っていました。
一人の時間は、魂の静寂を得る時間
冒頭で、「一人で外食できない」という人の話をしましたね。
私は、と言えば、一人で立ち食いそばを食べるのも平気です。商店街のおばあさんと立ち話をしたり、面接などでたまたま隣に座った人に「帰りにコーヒーを飲みませんか」と誘ったこともあります。着物を着て一人で歩いていて、それで声をかけられたりしても平気です。
一人でいる時間には、沢山の発見があります。鳥や、花、身の回りの自然に目が向くようになり、(これまでブログで紹介してきましたが、)ツバメの巣や、池の金魚や、木々にとまった美しい蝶を、ほんの一瞬の間でも、心静かに眺めることができます。
その時、自分は、内的な充足感で満たされるようです。うまく言えないのですが、そこには、生きる原動力になる「内面の充足」があるように思えます。
女はいつも自分をこぼしている。子供、男、また社会を養う者として、女の本能の凡てが女に、自分を与えることを強いる。
『海からの贈物』アン・モロウ・リンドバーグ 新潮社版
今では、男性女性に関わらず、言えることだと思います。男の人も家庭の仕事をしますし、男女さまざまな役割を果たすことが必要ですから。
そして、「こぼす」ばかりでなく、一人になって本質を取り戻すこと、「魂の静寂」が大切だということを作者は主張しています。
※写真は海辺でとりました。数分でこんなに色が変わります。