「箸墓以前」――初期ヤマト政権の動向

 

前回は、従来その実在が否定されている闕史(けっし)八代の天皇をとりあげて、文献上からかならずしも、実在を否定するべきではなく、そこから初期のヤマト政権のあり方を推測することができることを述べた。そこからは、奈良盆地の南東部に拠点を置く、局地的な勢力が周囲の同じような勢力と婚姻関係で結ばれている有様や、それがやがて力を増して、河内や紀伊、丹後の勢力と連携していくこともうかがえた。

このような文献上からの推測は、ヤマト政権の王宮と推定される奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡のあり方とも符合する。纏向遺跡は庄内式と布留(ふる)式というふたつの土器形式で表される時代にまたがって営まれているが、箸墓(はしはか)古墳はその布留式の最初の段階の造営であるらしい。

この箸墓古墳の築造年代は3世紀中ごろと考えられており、このことが箸墓を邪馬台国の卑弥呼の墓とみる説が有力視されていることはよく知られているが、わたしのみるところでは、重要なのはそこではなく、『日本書紀』で箸墓が崇神(すじん)天皇の時代に造営されたと述べられていることである。箸墓の被葬者が、『日本書紀』のいうとおりにヤマトトトヒモモソヒメかどうかは明確にはできないかもしれないが、すくなくとも、箸墓の年代から崇神天皇の時代が3世紀半ばであることが明らかになったことが重要なのである。

 となれば、それ以前の庄内式土器の段階の纏向遺跡は崇神天皇以前の時代に相当するのであって、すでに確認されている箸墓築造以前の墳丘墓は、崇神以前の纏向の王たちの墓にはかならず、この点からみても、闕史八代について真剣な再検討が望まれるのである。

 この時期はまだ、のちのヤマト政権は奈良盆地東南部のさらに局地的な勢力にすぎなかったのであって、同時代に九州北部にあった伊都(いと)国や奴(な)国と同規模か、あるいはそれよりもさらに規模の小さな存在だったのであろう。そのような小勢力が、次第に周囲をとりこんで、やがては河内、山城、丹後、紀伊などの地域勢力と同盟関係にはいることはその婚姻から多少推測できることも前回に述べたが、その具体的な経過はわからない点が多い。あるいは記紀が初代神武(じんむ)天皇の時代のこととしている奈良盆地の平定は、それ以降の何人かの王のもとでの出来事を一括したのかもしれないが、それも推測にとどまる。その経過はむしろ、考古学からみた弥生時代後期の奈良盆地での集落の盛衰から判明してくるだろうと思う。ただ、本稿は文献からの古代の復元をめざしているから、ここではその希望だけを記しておこう。

 

神武東征への客観的考察は可能か

 

では、そのヤマト政権のそもそもの起源はいったいどこなのであろうか。その発祥の地は纏向なのだろうか。文献からいえば、そうではなさそうであって、それ以前の根拠地は磐余(いわれ)地域と思われる。纏向よりも南ないし南西の桜井市の中心部である。なぜなら初代神武天皇はその和風諡号(しごう)をカムヤマトイハレヒコといい、それはイハレ、つまり磐余の王を意味するからである。磐余地域からはまだ纏向遺跡より古い王宮の遺跡が確認されていないようだが、やがて発見されることを期待しよう。

 ではヤマト政権は磐余を発祥の地とした政権であるのか。文献によれば初代神武天皇の出自は大和(やまと)ではなく九州で、そこから瀬戸内海を通って大和に入ったことになっている。いわゆる神武東征である。このことを歴史的事実とみる研究者は現在ほとんどいないといってよい。纏向遺跡との関係で闕史八代を含めてヤマト政権の発展を論じることには賛意をしめす人がいたとしても、さらに進んで神武東征をも歴史的に考察するといえば、ほとんどは引いてしまうであろう。

 さらに困ったことに、この問題には政治的な思惑も絡んでいる。『日本書紀』は神武天皇が橿原宮(かしはらのみや)で即位したのを、辛酉(かのととり)年の元日と記している。この辛酉年は西暦に換算すると紀元前660年に相当し、その元日は太陽暦の211日にあたるということを根拠に、明治初年に祝祭日として制定されたのが紀元節である。

 この祝日は戦後廃止されたが、1967年(昭和42)に建国記念の日として復活した。それについて賛否両論の激しい論争があって、現在にいたるもこの祝日に反対する意見も根強く、その根拠に、神武天皇は架空の天皇だということが言われもする。

 そうなっては、神武天皇を歴史的に考察すること自体が政治的な思惑と絡んだことと思われてしまって、このことが神武東征の客観的な考察を阻んでいるといっても過言でなかろう。

 1980年に刊行された星野良作氏の『研究史・神武天皇』は、神武天皇についての研究史を詳細にあとづけた書物だが、総じて東征伝説に史実の核があったという見解には否定的で、歴史と結びつけて考えるのではなく、東征伝説がいかに形成されたかを論じる伝説形成論が研究の目的にほかならならず、それが研究の進展だとする筆致である。そして、そこでは、戦後の神武天皇実在説は「逆コース」風潮の一翼だという政治的解釈を下されている。

この論法からすれば、わたしのこの連載なども、昨今の右傾化した政治状況の一翼をになうものにされかねない。学説をそのように理解することは、学問や研究者にたいする正しい姿勢とはほど遠いと思わざるをえない。

 ここへきて、本稿もいよいよ禁断の領域に踏み込んだようだが、わたしはいたってまじめである。というより、神武東征を歴史的に論じられるようになってはじめて古代史をまっとうに論じられるのではないかと思っているのである。そしてそれは昨今の政治情勢などとは一切関係がない。むしろ、いわゆる「右寄り」の人々にとっては、あまり面白くない話の展開になることと思うが、それはこれからのお楽しみだ。

 

神武以外の「東征」

 

ところで、今日、神武東征研究の主流を占めている感のある伝説形成論とは、東征伝説が何にもとづいて造られたかを究明しようというもので、それをのちの時代の史実の反映や儀礼の影響だとするのである。結局、その発想の根底には神武東征が皇室の由来を説く非常に特殊な伝説であるという思い込みがあるように思う。だが、そもそも神武東征のように、支配者が九州からやって来たという伝承は、それほど特異なことなのだろうか。前回においても述べ、今回も冒頭で記したように、ヤマト政権といってもその初期は奈良盆地の小勢力だったのであって、神武東征といっても、建国などというたいそうなものであろうはずはなく、九州からやって来た集団が奈良盆地の一角に住み着いたという程度のことにすぎないのである。

 そして、そのような集団はヤマト政権の祖先だけではなく、ほかにもあったに違いない。そう考えるとき、大王家と同じように九州を起源とする伝承をもつ氏族があったことは重要である。

 その一つが天日槍(アメノヒボコ)を始祖とする但馬(兵庫県北部)の豪族である。『日本書紀』垂仁887月戊午条に、天皇が但馬の清彦(きよひこ)にアメノヒボコが将来した宝物を献上させる話がのっている。それによれば、清彦の祖父、但馬諸助(もろすけ)はアメノヒボコの子であるという。『日本書紀』はアメノヒボコの渡来を垂仁(すいにん)3年条にのせている。それによれば、新羅(しらぎ)の王子アメノヒボコは最初、播磨に渡来し、さらに宇治川をさかのぼって、近江から若狭を経て但馬に定住したという。

アメノヒボコ渡来の解釈についての私見は、別の機会に述べたいが、当面問題となるのは、その出自である。『日本書紀』仲哀8年条に、北部九州に進駐した仲哀天皇の一行に帰属した伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖、五十迹手(いとで)は、『筑前国風土記』の逸文によれば、「高麗(こま)国意呂山(おろさん)に天より降り来る日鉾(ヒボコ)の苗」と名乗ったという。

つまり、但馬に渡来した勢力と伊覩県主一族はアメノヒボコという共通の祖先を持つのである。伊覩とは伊都のことで、県主は伊都国王の末裔であろうから、但馬に定住した勢力は伊都国王一族から分かれた可能性が高い。つまり彼らは、朝鮮半島から渡来して九州に定着して伊都国を形成した集団を起源とする一族だったのである。

これはヤマト政権がすでに奈良盆地の一角に形成されたあとになって、九州からやってきた集団だが、ヤマト政権以前、つまり神武東征以前に近畿地方に定住した勢力もあった。まず、神武天皇に服属したのちの物部(もののべ)氏はニギハヤヒノミコトを祭っているが、かれらが伝えた神宝は神武と同じものであったという。これは両者が出自を同じくしていたことの証拠である。さらに、神武一行を宇陀(うだ)地方に先導したヤタガラスは賀茂建角身命(かものたけつぬみのみこと)で、山城(やましろ)の鴨(かも)氏の始祖だが、『山城国風土記』の逸文には「日向の曾(そ)の峯に天降りましし神」だというので、九州起源であることがわかる。また、のちに紀国造(きのくにのみやつこ)となる紀直(あたい)氏の祭る日前(ひのくま)神の神宝は、『古語拾遺』によれば高天原(たかまのはら)で鋳(い)られた日像の鏡だという。つまり皇室の三種の神器と共通性があるということで、物部氏の場合と同様に紀氏もまた九州起源であることを示しているようにみえる。

 これらは後世にその出自についての伝えが残った事例だが、とうぜん九州を出自とする集団はこれらだけではなく、ほかにもあったと考えるのが常識的だろう。つまり、ヤマト政権もまたこれらの集団とおなじ出自伝承をもっていたのであって、その意味するところはそれ以上でもそれ以下でもない。それがヤマト政権つまり大王家のみのこととして後世に作られたものなら、同じような出自伝承を他の豪族が持っているはずはないし、またそのような伝承を形成することが許されたとはとても思えない。

 

移動の要因と倭国の大乱

 

このようにみれば、神武東征は九州の勢力の列島東部への移住という大きな動向のなかの一環として、弥生時代の歴史を考える重要な素材であることが理解できるであろう。では、その移動をもたらした要因とはなんだったのか。

まず、アメノヒボコの場合である。『日本書紀』がヒボコの渡来を垂仁3年としているのは、ヒボコが清彦の曽祖父にあたるので、その渡来は八十数年前だろうという編者の見解で、実際の渡来は垂仁の曽祖父、孝元(こうげん)天皇の時代あたりと考えるべきであろう。その実年代もはっきりとはしないが、箸墓や纏向遺跡の年代から推して、垂仁の父、崇神天皇の時代が西暦250年前後と思われるから、その祖父にあたる孝元天皇の時代は一世代30年として西暦190年ころというのが、当たらずといえども遠からずといったところだろう。

そこで注目されるのが、この年代が『後漢書(ごかんじょ)』東夷伝(とういでん)がつたえる倭国(わこく)の大乱の時期に近接していることである。『後漢書』にはその乱は、後漢の皇帝、桓帝(かんてい)と霊帝(れいてい)の時代の出来事で、西暦147年から188年の間のこととなる。

 このときの倭国の範囲がどのあたりだったのかは、邪馬台国の位置とも絡んで難しい問題だが、わたしは、邪馬台国は九州にあり、卑弥呼擁立にいたった倭国の大乱は九州に限定した内乱だったと考えている。これも今後この連載中でも述べることとなろうが、概略は近刊の『歴史読本』の「争乱の日本史特集号」に書かせてもらった。

そこでも述べたのだが、ヒボコの移住は、それまで倭国の盟主的地位にあった伊都国王の勢力が、筑後平野の諸国の台頭によっておこった戦乱の中で衰退し、その一部が九州をはなれて東方に移住したものと、わたしは推測しているのである。

もちろん、戦乱のみが移住の原因とはいえない。最近洋泉社から出版された『古代史研究の最前線・邪馬台国』の中で西川寿勝氏は、『三国史記』や『後漢書』の記事から193年前後に大陸から朝鮮半島、日本列島にかけて異常気象があって、多くの人々が疲弊したと推定している。『三国史記』には倭人が新羅に食糧を求めてやって来たとあるが、半島に渡来した人々がいたとすれば、列島内での人々の移動はなおさらあったとみなければならない。なお、西川氏はこの現象を崇神天皇の時代の疫病と関連づけようとされているが、これは年代的に合わないので、別の事象であろう。

では、神武東征やそれよりも前の時代に移って来たと思われる物部氏や鴨氏、紀氏の場合はどうだろうか。次回にくわしくみることとなろうが、ニギハヤヒを祭るのちの物部氏は、神武天皇の大和平定の物語からみると河内に根を張り、一部は奈良盆地東南部の磐余に住み着いていたらしい。そのうち後者が神武にうち滅ぼされたのである。私は、ヤタガラスは紀ノ川河口付近にいたと思っているので、九州から移動して紀ノ川河口部に定着したのであろう。

 ただこれらの集団については、アメノヒボコとは違ってその移動時期を確かめることは難しい。それでも神武天皇の場合は前回に検討したように3代安寧(あんねい)天皇から6代孝安(こうあん)天皇は実際には同世代らしいので、崇神天皇までの世代数は、9代開化(かいか)、8代孝元、7代孝霊の3世代に、3代から6代までの世代と2代の綏靖(すいぜい)、あわせて5世代となる。一世代を30年としてこの間約150年、崇神天皇の年代を例によって250年ごろとしたら初代神武天皇の年代は100年前後ということになるが、もとより大雑把な推算にすぎない。

神武はすでにみたようにイハレヒコとよばれて、磐余の王としてこの地域に居たらしいから、それに相当する遺跡が確認されれば、その年代から推定することが可能となるだろうし、前回述べたように、ミマツヒコと呼ばれた第4代孝昭(こうしょう)天皇のときには王宮は纏向に移っていただろうから、纏向に集落が営まれた時期が確かになれば、神武の年代はそれから数十年前のこととおさえることはできるであろう。いずれにしても、考古学の成果を応用しなければ、文献のうえからは今まで述べたぐらいが精いっぱいなのである。

 神武天皇でその有様だから、それより前の事例については、ますますわからないことが多くなる。ただ重要なことは、アメノヒボコも含めて、これまで述べてきた九州からの移動はみな弥生時代のことなのであり、しかも第1回で強調したように、古墳時代は箸墓古墳築造により、崇神天皇の時代に始まったのであって、神武東征より100年ほど後のことなのである。

従来、神武東征については、古墳の起源を九州に求める議論に結び付けられやすかった。邪馬台国が東遷してヤマト政権になったという説などはその代表的なものだろう。しかし、古墳はヤマト政権の拡大、発展のなかからうまれてきたのであって、その点ではまぎれもなく畿内・大和起源なのである。したがって、神武東征とはあくまでのちに古墳文化を生み出すこととなる勢力がどこから来たのかという問題なのであって、当時そのような集団はほかにもたくさんいたのである。その意味では、神武東征などさしてめずらしくもない、弥生時代を通じての人間集団移動の事象を伝えるだけのものだったのであって、そのかぎりではさほど重要な意義をもつものでもなかったのである。

 

天孫降臨神話の意味

 

そのようないくつかの東征伝説と同様に、当時としてはさほどめずらしくもなかったと思われるものとして、いわゆる天孫降臨神話がある。この神話も皇室がこの地上に君臨する由来を説いたものとされ、その形成についていろいろに論じられてきた。ところが、じっさいは天上の世界から神の子孫が地上に降臨し、地上の支配者の祖先となったという話は、天皇家にかぎった特異なものなのではないのである。

 たとえば、すでに述べたように、アメノヒボコもヤタガラスも山岳への降臨神話を持っていたし、『記紀』には有名な須佐之男(すさのお)命の出雲への降臨が記されている。さらに『出雲国風土記』には、意宇(おう)郡に大国魂(おおくにたま)命、天津子(あまつこ)命、出雲郡に宇夜都弁(うやつべ)命、飯石(いいし)郡に波多都美(はたつみ)命の降臨の話がみえる。また『常陸国風土記』にも、信太(しだ)郡に普都(ふつ)大神、香島(かしま)郡(現在の鹿島)に香島天大神、久慈郡に立速日男(たちはやひお)命(またの名を速経和気命)の降臨が記されている。もし各地の『風土記』がもっと残っていたらこのような事例はさらに増えたであろう。

 また『記紀』にみえるイザナギ・イザナミのおのごろ島への降下も、本来は淡路島のローカルな神話であった可能性が高いし、国譲りの前に高天原から地上に遣わされた出雲氏の始祖神、ホヒノミコトも本来は出雲氏の始祖神の降臨神話として独立していたものを宮廷神話に取り込んだのであろう。

 このようにみれば、豪族というか、かつての地域的王権の始祖が天上から降臨したというのはかなり普遍的な神話だったのであって、そのこと自体に、「大王家」の地上世界の支配を正当化する機能などなかったのだ。すでに指摘があることだが、『日本書紀』には、本文と注記で、天孫降臨について、天孫ニニギノミコトが単独で降臨する簡単なものから、多くの随神を従えている複雑なものまで様々なバリエーションがあったことが確かめられている。おそらく、天孫降臨はもともと単純な神の降下神話であったものが、次第に複雑なものに改められていったのであろう。

つまり、もともと「大王家」は、九州の山岳に始祖が降臨し、その後畿内に東遷したという起源譚を伝えていただけの話で、それはかならずしも特別な出自を主張するものなのではなく、むしろの当時よくみられた伝説のひとつにすぎなかったのである。そうとすれば、神武東征は天孫降臨神話と同じく「大王家」の日本列島支配の正統性を述べる役割など果たしようがないのである。

このように今回では、神武東征と天孫降臨について検討して、天皇家が伝えてきた物語は、けっして特別の意味をもつものではなかったと考えた。とすれば、それを前提にしたような伝説形成の解釈は的を射たものとはいいがたいだろう。我々はそろそろ神武東征や天孫降臨を、なにかとても特殊な、特別の意義をもって述作されたものだという思い込みから自由になるべきではないかと思う。それらが弥生時代の地方王権に普遍的ですらあった起源譚のひとつだと見定めたとき、この伝説を古代国家成立史の研究に真に役立てていくことができると、わたしは信じているのである。

 ではあらためて、神武東征、つまりヤマト政権の九州起源説を、その伝えにしたがって検討してみなければならないが、今回はすでに紙数がつきたので、それは次回のお楽しみにしよう。

(第3回了)

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