親子・兄弟のケンカが変えてしまった後の世界
仲が悪く争いばっかしている親子といえばパッと、美味しんぼの海原雄山と山岡士郎が思い浮かんでしまう。
最後のほうの巻では仲直りしてましたが、ずっと周囲の人間を巻き込んで争いつづけていました。それが読者には楽しかったんですが、彼らが迷惑を与えるのが栗田さん一家とか東西新聞社の人とか美食倶楽部の人間とか、周囲の人間だけだからまだいいです。
王族の親子・兄弟ケンカとなると影響がとてつもなく大きく、意地で争いつづけたせいで後の歴史が決定的に変わってしまうことすらありました。
歴史上の親子ケンカ・兄弟ケンカの例は枚挙に暇がないのですが、中でもとびきり後世への影響が大きいものをピックアップしました。
1. クレオパトラ7世(姉) vs プトレマイオス13世(弟)<エジプト>
悲劇の女王クレオパトラと兄弟の主導権争い
エジプトのプトレマイオス朝は親子ケンカ・兄弟ケンカが日常茶飯事の王朝で、歴代の国王たちの多くは、親や兄弟に殺されたり、子に殺されたりと、まあヒドい有様です。
その背後には官僚や有力者の派閥の対立があり、彼らが王のバックについて互いに争わせていたわけなのですが。
世界三大美女の1人とされるクレオパトラ7世も例外でありません。
もともとクレオパトラ7世には姉のベレニケ2世がいましたが、彼女は父親のプトレマイオス12世と争った挙句に処刑されており、国王の死後は慣習に則って弟のプトレマイオス13世と兄弟婚をし、共同王に就任しました。
当時のプトレマイオス朝は共和制ローマの影響下にあり、クレオパトラ7世のバックには親ローマ派が付き、プトレマイオス13世のバックには反ローマ派が付き互いに争いを続けていました。
プトレマイオス13世派はローマからの独立を主張し、一時はクレオパトラ7世を追い出して主導権を握りますが、カエサルとの対決に敗れた元老院派の将軍ポンペイウスがエジプトに亡命してきたのに反発し暗殺してしまう。
カエサル率いるローマ軍はポンペイウスを追ってエジプトにやってきたが、そこでポンペイウスの死を知る。この時のエピソードは非常に有名です。クレオパトラ7世はカーペットに包まってカエサルの寝室に忍び込み誘惑して、カエサルの愛人になることに成功したと言われています。
このエピソードは本当かどうかわかりませんが、いずれにしてもカエサル軍と結んだクレオパトラ7世派は、反ローマ派とプトレマイオス13世派をナイル川の戦いで破り、クレオパトラ7世派が主導権を握ることに成功したのでした。
その後
実権を握ったクレオパトラ7世は、カエサルの死後には今度は東方に権益を持つローマの将軍アントニウスを誘惑し取り込むことに成功。
ところがカエサルの後継者を自認するオクタヴィアヌスとの戦いに敗れ自殺。プトレマイオス朝エジプトは途絶え、その後エジプトはローマ皇帝直轄領とされました。
エジプトはいずれローマに取り込まれる運命だったのかもしれませんが、後のエジプトの権力のあり方や統治のされ方は、クレオパトラ7世によって大きく変わったと言えるかもしれません。
2. カラカラ帝(兄) vs ゲタ帝(弟)<ローマ帝国>
野心家の兄と温和な弟の争い
カラカラとゲタの父・皇帝セプティミウス・セウェルスは、ローマ帝国の絶頂期と言われる五賢帝の後の内乱を制しセウェルス朝を開いた男で、初の北アフリカ属州出身の皇帝としても有名です。
セウェルス帝は生存中に自分の二人の息子、兄のカラカラと弟のゲタを共同統治者に任命。それを宣伝すべく、帝国中に上記のような「仲睦まじき皇帝一家」のレリーフを作って配布させたりしています。
211年、父帝セウェルスが死亡し、兄弟2人は父の遺言通り揃って皇帝に就任しました。
ところが兄カラカラは共同皇帝が気に食わない。カラカラはアレクサンダー大王に憧れるような、野心が強く勝ち気な性格であったのに対し、弟ゲタはおっとりした性格で、「なぜこんな無能と共同でやっていかねばならぬのだ」と我慢ならない。
兄弟のケンカを母ユリア・ドムナは都度仲裁に入るのですが、その「仲裁の面会場」で、しかも母の目の前で、カラカラは弟ゲタを殺害してしまう。
殺害後カラカラは自らを最高権力者であると宣言。弟ゲタの派閥の人間をことごとく殺害・弾圧しました。
また帝国中にあった「仲睦まじき皇帝一家」のレリーフから弟ゲタの顔を削らせるなど、弟ゲタの跡を徹底的に破壊しました。
その後
カラカラの治世は悪化する帝国の財政に常に悩まされており、財政悪化を打開すべくカラカラは「アントニヌス勅令」を交付し、ローマ帝国に居住する自由民の全てにローマ市民権を付与し、代わりにローマ市民税を5%から10%に引き上げました。
これまである意味「特権」だった「ローマ市民」という権利が属州民含む全ての人に適応されたことで、ローマ市民というものの意味も変わりました。
それまでは、契約社員で頑張って成果を出して初めて正社員になることができたのが、全員平たく正社員にしたようなもので、正社員でいることのメリットとか、頑張って正社員を目指すことの意義がなくなってしまったのでした。
カラカラ帝はパルティア遠征中に部下の軍団長マクリヌスと配下の警護隊の手によって殺害され、セウェルス朝は断絶しました。
3. ロタール(兄) vs ルートヴィヒ(弟)<フランク王国>
現在の欧州の地図を作った兄弟の争い
カール大帝といえば、イタリア半島、イベリア半島、北ドイツ、ハンガリー、クロアチアにまで遠征してフランク王国を拡大させ「ヨーロッパの父」と称されるどえらい男です。この偉大すぎる父親の死後、王国を分割させて後のフランス、ドイツ、イタリアの領域を作ったのは彼の孫たち。
当時のフランク王国では、王は息子たちに支配領域を分割相続させるのが一般的でしたが、カール大帝の息子たちは相次いで死亡したため、息子のルートヴィヒが全領土を引き継ぎ、ルートヴィヒの息子たちに各地域を分割させました。
長男ロタールは父と共に共同皇帝に就き、首都アーヘン(北西独)周辺を統治し、次男ピピンはアキテーヌ(南仏)、三男ルートヴィヒはバイエルン(南独)を統治しました。
父ルートヴィヒの死後、長男ロタールは単独で王位に就き自らの支配領域を拡大しようとしたため、兄王の支配拡大に反発する三男ルートヴィヒと、父ルートヴィヒの庶子シャルルが手を組んで軍を起こし、ロタールの軍勢と戦いました。841年、フォントノワの戦いです。
この戦いでは約10万人のフランクの戦士が動員され戦い、4万の戦死者が出たとされています。相当激しい戦いだったようです。
この戦いに勝利したのは、三男ルートヴィヒとシャルル。戦いに敗れ妥協を余儀なくされた長男ロタールは、「ヴェルダン条約」を締結しました。
その後
ヴェルダン条約により、フランク王国は「ロタールが国王の中フランク王国」「シャルルが国王の西フランク王国」「ルートヴィヒが国王の東フランク王国」に分割されました。
この分割により、おおざっくりとフランス、イタリア、ドイツの領域が形作られたとされます。
4. エイレーネー(母) vs コンスタンティヌス6世(息子)<東ローマ帝国>
実の息子の目をくりぬいて追放したパワー・ママ
長きに渡りキリスト教教会は西方のローマ・カトリックと東方の正教会のニ大勢力に分かり論争を繰り広げていましたが、建前上は「一つの神の教え」であるため両協会の統一の試みは幾度と無く繰り広げられていました。
東方教会を擁す東ローマ帝国では、長い間「イコン崇拝」論争が繰り広げられており、旧約聖書でモーセが掲げた十戒の一つ「偶像を崇拝してはならない」を根拠に、皇帝レオン三世は帝国内のイコンの弾圧を始めました。
これは隠然たる影響力と経済力を持つ教会勢力の力を削ごうとする皇帝側の策略だったのですが、以降イコンは是か非かが帝国を巻き込んだ一大論争となっていきます。
ローマ教会は東で起こったイコンの弾圧に反発し、東西教会の対立は決定的となりました。
771年、イサウリア王朝第4代皇帝のレオン四世は、祖父レオン三世、父コンスタンティヌス五世の政策を継ぎイコン破壊を推し進めましたが、妻エイレーネーは敬虔な女性でイコン破壊を快く思っていませんでした。
レオン四世の死後、息子のコンスタンティヌス6世が第5代皇帝に就きますが幼かったため摂政として母エイレーネーが実権を握ることになります。
エイレーネーはかねてより反対していたイコン破壊を禁止し、教会勢力やイコン崇拝派の助力も得た上で、コンスタンティヌス6世を操り、政治を実質的に操りました。
ところがコンスタンティヌス6世が成長するにつれ、元々仲が良くなった2人は徐々に意見の食い違いがでるようになり、またイコン崇拝反対派はコンスタンティヌス6世側に付き、エイレーネーの独断政治に敵対するようになります。
自分の意見を聞かなくなった息子に対し苛立った母は、息子がブルガリア遠征に失敗した機会に乗じ彼を捕えて目をくり抜いて皇帝の座から追放し、自分が皇帝に就いてしまいます。
こんな荒っぽい手段が可能だったのも、教会勢力が背後に付いていたからでしょう。
皇帝に就いたエイレーネーは第2回ニケーア公会議を開きイコン破壊の終了を宣言し、東西教会の統合を訴えました。それに応え、ローマ教会ではカール大帝とエイレーネーの結婚が企画されましたが、東西統合に反対する勢力と反イコン崇拝勢力は糾合し、財務長官ニケフォロスを立ててクーデーターを起こし廃位され、翌年死去しました。
その後
ニケフォロスはその後皇帝となり、コンスタンティヌス6世の娘と結婚。エイレーネーの政策を反故にしてイコン破壊を推し進めました。
エイレーネーは東西教会の分裂状態を憂い、その統合を試みたものの結局失敗し、東西の教会の相違は大きく拡がっておりもはや統合が不可能であることを証明したように思います。
5. ヤロポルク1世(兄) vs ウラジミール1世(弟) <キエフ大公国>
後にロシアの基礎を作った偉大な王の兄弟争い
ウラジミール1世はキエフ大公国にキリスト教を取り入れて異教の崇拝を禁止し、後のロシアの基礎を作った王とされています。
それまでルーシの地は北方ノルマンの影響が強く、夏は耕し冬は近隣部族や周辺国に略奪赴くヴァイキングのような価値観を有しており、父王スヴャトスラフ1世は内政より戦いを好み自ら敵に突進していく蛮勇を誇る男でした。
父スヴャトスラフ1世の死後、キエフ大公の長男ヤロポロク1世は、ドレヴリャーネ公の次男オレグと不仲になり、戦いの末オレグを倒して領土を乗っ取り、その軍をノヴゴロド公の三男ウラジミールに向けてきました。
抗する手段なしと見たウラジミールはノルマンの母国スカンディナヴィアに逃亡しました。
ルーシは兄ヤロポロク1世に乗っ取られてしまったのですが、1年後にウラジミールはノルマンの戦士を引き連れてルーシに上陸し兄の軍と戦い打ち負かし、980年にキエフ大公として即位しました。
その後
ウラジミール1世は988年にキエフ公国の国教にキリスト教を取り入れ、東ローマ皇帝バシレイオス2世の娘アンナと結婚。
これにより、ルーシはこれまでの北方との繋がりよりも、正教会の影響が及ぶ東ヨーロッパ〜バルカン半島との繋がりを重視するようになっていきました。
ちなみに、王の血統に東ローマ皇帝の血があることは、コンスタンティノープルがオスマン・トルコによって征服されビザンチン帝国が崩壊した後に、「ルーシこそ唯一の正教会の正当性を有する」と自認させる根拠となったのでした。
繋ぎ
10例ピックアップしたのですが、一つ一つが長くなってしまったので続きは後編に渡します。
母と息子、兄弟同士の仲が悪かったというのもありますが、どっちかというと政治勢力や派閥同士の抗争に王族の個人的な対立が巻き込まれて大戦争に突入していった感じです。
その後の運命を変える戦いが終わった時、せきとめられていた堤防が決壊するように大きく時代が動いていく。
さて後編もお楽しみに。