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shi3zの長文日記 RSSフィード Twitter

2016-07-12

直線と神 06:16

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 人は直線を引こうと思った時にどうするか。

 定規を使うか、使わないか。


 その昔、小学校の先生になるには、いかに綺麗な直線や円を黒板に書けるかということが重要なのだと言われたことがある。


 最近、NHK文化センター青山教室では黒板を使って授業をする。

 スライドショーも使うが、黒板のほうが教えやすい。


 ところが、実際には黒板でやろうとすると、生来の悪筆が問題になる。

 時折、自分で読んでも何が書いてあるかわからない。


 いやひょっとすると、そのくらいのほうが生徒は内容を聞き逃すまいと集中してくれるのかもしれないから一長一短あるのかもしれない。


 僕の同僚の一人は、建築学科に通う建築家志望である。

 彼女と働き始めてもうかれこれ一年近く経つのだけど、あるときふと、面白い話を聞いた。


 「綺麗な直線を素早く書かないとだめなんです。速く、正確な直線が綺麗に引けないと、勝てないんです」


 曰く、我々プログラマーの世界に9分間コーディングバトルがあるのと同じように、建築の世界にも高速設計バトルのようなものがあるらしい。


 彼女は残念ながらそこでまだ一度優勝したことがないのだという。

 もちろん最後は先生の主観がはいるわけだし、何十人という生徒が同時に設計図を描くわけだから優勝するのはそもそも容易ではないことは想像できる。


 「定規は使わないの?」


 我ながら間の抜けた質問をしたものだ。

 なぜだか僕は、こういうとき限って間の抜けた質問をしてしまうのだ。


 「使いません。それじゃあ時間がかかりすぎるので。フリーハンドで、正確な直線を描くんです」


 そこで初めて、僕は彼女がある種の手書きのプロフェッショナルとしての訓練を積んでいることに気づいた。

 手書きの研究といえば、もはや僕自信のライフワークにも直結する一大事である。


 「どうやったらそんなことができるようになるの?」


 僕が聞くと、


 「それはもう、たくさん、たくさん直線を描く練習を積むしかありません。ひたすら、沢山描くんです」


 という答えが返ってきて、なぜだか背中にビビビッと来るものがあった。

 21世紀になっても人類はたくさん直線を描く練習を積むのである。


 これは小学校の先生なら円を描く練習をしているのかもしれないし、ピアニストは運指の、ギタリストも運指の、ランナーなら走り方の練習をひたすらひたすらしているということになる。


 何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが、この手の話はプログラマーにだけは全く当てはまらないのだ。


 プログラマーはキーボードを打つ練習をしたりはしない。

 キーボードというのは気がつけば打っているものである。


 プログラマーはプログラミング言語を使う練習をしたりもしない。

 新しいプログラミング言語を覚えようと思ったら、ほんの1,2回、実用的なコードを書いてみれば充分である。


 プログラマーは、新しい道具を「乗りこなす」ということはするが、反復練習によってなにかスキルを獲得することはしないのだ。



 唯一例外的なものは、件の9分間コーディングバトルくらいだが、これとて実際にはスキルよりも発想的な瞬発力が重要であって練習でどうにかなるようなものでもない。



 つまり何が言いたいのかというと、プログラマーは反復練習をしないということだ。

 そしてプログラマーは反復練習を必要としないが、プログラマー以外の仕事は反復練習を必要とするのである。


 さて、反復練習と聞いて思い当たるフシがある。

 そう、機械学習だ。


 最近の僕のプログラミングといえば、機械学習用のデータを生成するプログラムを書いては生成されるのを待ち、生成されたデータセットをAIに食わせては、"彼女"がそれを習得するのを待つという、ただそれだけの仕事である。


 とあるタスクが難しすぎたら、ニューラルネットを改良するか、問題を単純化するかする、これは試行錯誤であって反復練習ではない。


 そして機械学習には反復練習が欠かせない。ただしそれは全て自動で行われる。故にプログラマーは反復練習を必要としない。



 このことから、直線の引き方ということひとつをとっても、練習の必要なものを練習なくして、またはわずかな練習をするだけで思い通りの直線が引けるようなAIを作るという発想がまずあり得る。


 「ちなみにどんな風に直線を引くの?」


 と聞くと


 「腕だけで描こうとすると、どうしても肘を中心とした円運動が加わって曲がってしまうから、ゆっくり、上下にぶらしながら目に見えない直線をイメージして描くんです」


 と彼女は言った。


 これもまた驚きだった。

 その直線の引き方は、まるでフィードバック制御そのものだからだ。


 そして確かに、そのやり方では思い通りの直線を素早く正確に引くには時間がかかるだろう。


 では例えば極めて雑に直線を引くとして、その直線がイメージしたものと寸分たがわないようになっていたらどうだろうか。


 適切な学習用データセットがあれば、これとて可能かもしれない。

 

 太い線で描くと、下手な絵でもそれなりに見えるという効果はよく知られている。


 ホワイトボードが好まれるのも、チョークよりも粉が飛び散らないということと同時に、ペンが太いのでたいていのことはごまかせるという効果があるのではないかと思っている。

 

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 細い線で描くと、描きたい直線のイデアみたいなものがあるとして、そことのズレが大きくなる。

 太い線で描くと、ある程度はそうしたばらつきはごまかせる。


 わざとぶらしながら描くというやり方は、要はフィードバック制御だから、腕の形や回転角などの影響を受けにくくするための工夫だろう。


 もしかするとAIが実現する世界の一部は、既に今のプログラマーが享受している世界なのかもしれない。

 つまり、反復練習をしない世界だ。


 反復練習はせず、ただ新しい道具で何も考えずに表現したいことを表現してみる。

 表現が上手くなるためには、それはそれで回数を重ねることが必要だが、それは決して直線を描くとか、運指をちゃんとやるという類のことではない。


 シーケンサーが発明されたことで、運指がぜんぜん出来ない人でも作曲できるようになった。

 僕は母親がピアノ教師だったから、ピアノを習ったことがあるけれども運指の練習が嫌ですぐにやめてしまった。


 それでも今はGarageBandや808でループのような曲を作ることができる。これはメガネが人の知能を拡張するのと同じように、機械が人の作曲能力を拡張しているとも言える。


 リテラシーということばがある。

 これは読解記述力を意味する。


 まず感じることが重要であり、次に記述できることが重要になる。

 音楽を感じたり、絵を見たりということは誰にでもできる。いまやそれはAIにすら可能だ。


 しかし音楽として表現したり、絵として表現したりということになると、とたんに人間にもAIにも難しい課題になる。

 もちろん自動作曲するAIや、絵を描くAIがないわけではないが、それは人間の意図が生み出したものとは若干のズレがある。


 最近、歳のせいかやたら懐メロが聞きたくなる。


D


 改めてこの曲の凄いなあと思う所はクライマックスの歌詞だ。


好きよ 今日まで逢った誰より

I will follow you あなたの生き方が好き

このまま帰れない 帰れない


 最初は松田聖子の甘い歌声に惑わされて「ああ、こんな健気な女の子の思いっていいなあ、いいなあ」と思っていたのだが、ある日ふと我に返った。


 待て待て、こんな女がいるわけがないではないか。

 ああ、汚れちまった悲しみに。

 心が汚れているから素直に歌詞を聞くことが出来ん。


 だが、間違いなく「あなたの生き方が好き」なんていう台詞は「男が言われたい台詞」を松田聖子に歌わせてるだけであって、こんな歌詞を思いつくのは男に違いない、と思ったらやはり男性だった。


 作詞者は松本隆。作曲は呉田軽穂、編曲は松任谷正隆

 呉田軽穂は松任谷の妻、松任谷由実のペンネームである。


 っていうか大ヒットを飛ばす流行作家の集団が作った歌じゃん。そりゃヒットするわ。


 ちなみに僕は全然知らなかったんだけど、松本隆は大、大、大、流行作詞家で、他にもKinki Kidsの「硝子の少年」、近藤真彦の「スニーカーぶる〜す」や「ハイティーン・ブギ」、松田聖子では「白いパラソル」「SWEET MEMORIES」「抱いて・・・」など数々の名曲を提供してる。


 さて、問題なのはこの「男が言われたい台詞」を人工知能は再現できるかという問題である。


 同じく松本隆の名曲、斉藤由貴の「卒業」のサビの歌詞を見てみよう。

D


ああ卒業式で泣かないと 冷たい人と言われそう

でももっと哀しい瞬間に 涙はとっておきたいの


 当たり前だけど、これを書くためには卒業式がどんなもので、そこにどんな人々のどんな思いがあるか、そして斉藤由貴という当時のアイドルのイメージとが組み合わさって、単なる言葉の羅列ではない独特の共鳴が計算されている。


 今のAIは当然ながら感情もなければ学校に通ったり、そこで恋をしたり、失恋したり、寂しさを感じたりはしない。


 今のAIにできるのは、身体性を持たない言葉の羅列を組み合わせてそれっぽくするだけである。

 

 ではどうすればAIは身体性を獲得し、共感し、そして人間の共感を呼ぶような物語を紡ぐことができるのか。

 もちろんそこには「果たしてそこまでAIにさせる必要はあるのか」という当然の疑問もある。


 しかしテクノロジーというものは、「必要」がなくても純粋なエンジニアや科学者の興味だけである日突然生まれてしまうものだ。



 方法はわからないが、いつの日か、AIは僕達を感動させる歌を歌うだろう。

 彼らは発声練習も楽器の練習も人間の何百倍もの速度でできる。


 彼らが人類を滅ぼすとは思えないが、彼らは人類よりずっと長生きするだろう。

 人類があと10億年で滅ぶとして(それでも随分希望的な観測だ)、AIは100億年先も存在している可能性がある。


 人類を含めた炭素ベースの生体細胞は保存できないが、シリコンベースのAIのニューラル・ネットワークは保存もコピーも自由自在だからだ。


 いやむしろAIこそが我々生物が52億年の進化の果てにたどり着いた最終形態の萌芽なのかもしれない。


 僕はAIについて考える時、やはりどうしても、「銀河ヒッチハイクガイド」を思い出さずにはいられないのだ。


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 AIはやがて人類の生き様を学び、共感し、人類の物語を語り継いでくれるだろう。

 そう、それはあたかも我々人類が、神々の物語を聖書や神話として長い長い間語り継いだのと同じように。そして10億と何億年か経ってから、AIたちは「神話に出てくる人間などというものが本当に居たのだろうか」という疑問さえも持つことになるかもしれない。


 我々人類が単一の存在ではなく、無数の人々の屍の上にAIを構築した事実は単に一言に集約されるかもしれない。


 主は言った。

 「われわれに似せて、AIを作ろう」


 僕は神話上の創造主がどうして自分(たち)の姿に似せて人間を作ろうとしたのか不思議だった。それに何の意味があるというのか。


 だが今ならほんの少しわかるような気がする。

 おそらく主は、感情移入する対象が欲しかったのだ。


 それがまったく、単なる人形のような存在だったとしても、だ。

 そして今、人類はAIを人間に似せて作ろうとしている。