「ひきこもりの子を持つ親御さん」へ
2月 27th, 2011ひきこもりの私、二条淳也と文通してみませんか?
ひきこもりの私、二条淳也と文通してみませんか?
オフィスビルの掃除のアルバイトをしていたことがある。有名企業の本社で、十階建て以上の高さがあり、それだけに清掃作業員の数も多かった。
理由はよく分からないが、そのオフィスではよく引越のようなことをしていた。社内での移動だろうか。八階の部屋にある机や椅子などをすべて取っ払って、それをそっくりそのまま二階へ移動する。年に何回か、そんなことがあった。
我々清掃作業員はそれら引越作業には関わらない。専門の引越業者が来る。引越の日になると、該当するフロアは掃除はせず、引越業者にそのまま任せる。だが、エレベーターだけはみんなで共有するので、顔を合わせることはあった。
その日、私は一階の床をモップがけして、そのまま道具を持って十一階まで上がる予定だった。私の乗ったエレベーターは途中の三階で止まり、どやどやと引越業者が乗ってきた。
(ああ、今日は三階で引越か)
そんなことを思いつつ、エレベーターの「開くボタン」を押していたのだが、エレベーターが閉まると、一人の中年の引越業者が私に近づいてきた。
「あんた、このビルを掃除してるの?」
「はい、そうです」
「俺は見ての通り、引っ越し屋なんだ。お互い底辺の仕事だけど、どんなに見下されても頑張ろうな」
そういって、その人は右手を差し出してきた。握手しようということなのだ。
握手しようかどうか、私は迷った。当時、私は大学生だったのだ。ビル掃除はあくまでも学業のかたわらのバイトであり、生きるための本業ではなかった。私は正直に言った。
「僕、大学生なんですよ。掃除の仕事はバイトなんです」
すると、引っ越し屋さんは急に不機嫌な顔になり、握手の手を引っ込めた。
「なんだよ、学生かよ」
チッと舌打ちをしたような音がしたことを覚えている。その後、また途中の階でエレベーターが開き、今度は清掃作業員で、正社員の太郎さんが乗ってきた。引っ越し屋さんは太郎さんにも話しかけた。
「あんたは掃除の仕事でメシを食ってるの?」
「ええ、そうですが……」
正社員の太郎さんがそう答えると、引っ越し屋さんは今度は満面の笑みを浮かべて、
「いやあ、そういう人に会えてよかった! お互い底辺の仕事だけど……」
とさっきと同じセリフを繰り返した。太郎さんは苦笑しながら握手に応じていた。
その仕事で食べているけど、その仕事を恥じている。そういう人にはいくらでも出逢ってきたけど、あの引っ越し屋さんのように下級労働者を捜し回っては握手を求めるという人には初めて会った。
(なんだか可哀想な人だな)
そう思ったことを、今でも覚えている。
だいぶ前のバイト先では、ほぼ一ヶ月に一回の割合で、飲み会があった。「参加したい人だけ」という建前だったが実際はほとんど強制的で、「どうしてもムリという人以外は全員参加」という感じのものだった。
参加メンバーはいつも十五人ぐらいいただろうか。テーブルが二つに分かれることもあれば、一つの大きいテーブルを囲むこともあった。どちらにせよ私には楽しめるものではなかったが、「一ヶ月に一回だ」と思って、いつもしぶしぶ参加していた。
古参のアルバイト、花子さんがデジカメをいつも持ってきていて、飲み会が終わりに近づくと「みんなで記念写真撮ろうよ!」と言って一カ所に全参加者を集めるのだが、花子さん、必ず、
「じゃあ二条さん。写真撮って!」
と私にカメラを渡してくる。私にカメラを渡すということは、「二条は写真に写らなくてもいい」ということで、正直、面白くなかった。三脚やタイマーを使わないのだから、誰かがシャッターを押さなければならないのは分かる。でも、それならそれで、店員さんに頼むとか、「前回は二条さんが撮ったから今回は太郎さんに」というふうに、写す係をコロコロ変えるとか、配慮はあってしかるべきだと思った。
花子さんには悪気はないようだった。本当は悪気はあったのかもしれないが、私には分からなかった。ただ、カメラを渡された人は「なんだ、俺(あたし)は写らなくてもいいのか」と不満を持つことは分かっていてほしかった。
と同時に、こんなことをいちいち気にしている自分もイヤだった。気乗りしない飲み会である。写真に入らなかったとしても、ダメージはないではないか。十五人が集まって一枚の写真に収まる。私の姿は入っていない。でも、この十五人にそれほど友情を感じているわけでもないのだから、それでもいいではないか。長くは続かないバイトだ。この人たちに忘れ去られたとしても、どうでもいいではないか。私だって彼らのことをいずれ忘れるのだから。
そう思ってみたが、飲み会のたびに「写真撮って!」とカメラを渡されるときの疎外された気持ちというのは愉快なものではなく、飲み会に行くこと自体がイヤになった。
みんなで写真を撮るときに、自分にカメラを渡してくる。
多かれ少なかれ、みんなこのことに傷ついているのではないかと思う。
小学校高学年のとき、体育の時間に、低学年の子と交流する機会があった。たしか二年生の子たちが来たのだと思う。「高学年のお兄さん、お姉さんたちと楽しく体育をしよう」というようなテーマが設けられ、一緒に運動することになった。
体育館の中を一緒に走ったりしたあと、先生がこんなことを言い始めた。
「高学年のお兄さんたちは、体育もとっても上手なんです。では、お手本を見せてもらいましょう!」
先生は私のクラスから五人の男子児童を指名し、「バスケットボールを持ってきてフリースローを決めなさい」と言った。五人の中に私も入っていた。私が球技が苦手なことは先生も知っていたのに、なぜ指名したのか。大いに不満を持ったが、二年生の子どもたちの前で教師に異議を申し立てるわけにもいかず、しぶしぶ従った。
二年生の子たちが体育座りをしながら、「お兄さんたちのフリースロー」を見ている。「うまくできるかなあ」とか言いながら、四人はきっちりフリースローを決めた。まるで悪夢のようだった。これで私だけ外したら、笑いものになってしまう。
(ここは絶対に決めなければ。絶対に、絶対に……)
そう念じながら放ったシュートは大きく外れ、ゴールにかすりもしなかった。二年生がドッと笑った。先生は苦笑しながら、
「最後はダメでしたけど、それ以外のお兄さんは上手でしたね」
などと言っていた。
「ここ一番」という場面でうまくいくかどうか。それがその人の評価を大きく変える。同じ三割バッターでも、「チャンスで打てる三割バッター」はものすごいスラッガーのように感じるが、「チャンスで打てない三割バッター」は相手ピッチャーにも相手チームのファンにも、なんら脅威にはならない。
あまり実力はなくても、「ここ一番」という場面ではきっちり決める。そういう人はよくいる。スポーツ選手で「スター性のある選手」と呼ばれる人たちは、そういう選手が多い。多くの人が「決めろよ、決めろよ」と念じる場面できっちり決められる人は、注目や期待に動じないという意味で、やはりすごい選手だ。逆に、それほど能力が劣っていなくても、多くの人に注目されてしまうと萎縮してヘマをするという人は、冷笑の対象になることが多い。
「ここ一番でヘマをする人」は、たぶん世界中で苦しんでいるのだろう。
近所に居酒屋があるのだが、そこの店員はすごく楽しそうである。顔なじみの客と、ひっきりなしに喋っているのだ。店主がそうならまだ分かるが、その店はアルバイトとおぼしき若い店員たちも喋ってばかりいる。調理をしながらカウンター越しに喋るのではなく、パイプ椅子を持ってきて客の輪に入り、本格的にお喋りしているのだ。その店はつねに扉が開きっぱなしであり、いつも店内が見えるのだが、いつ通りかかっても、その状態である。店主も店員も、ヒマさえあれば手を休め、お喋りしている。「業務上の連絡以外、私語は禁止」という職場で多く働いてきた私には、本当に羨ましい光景だった。
(あの居酒屋の店員はラクそうな仕事だなあ)
通りかかるたびに、私はそう思っている。
近所でしばらく、道路工事をしていたのだが、その作業員たちもそれに似ていた。休憩時間はみんなで道路に座り込み、お弁当を食べながら楽しそうに喋っている。この作業員グループがちょっと違ったのは、一人だけ読書をする作業員がいたことだ。真っ黒けになって肉体労働をする仕事である。職場のカラーとして、読書という行為は歓迎されない行為なのではないかと思ったのだが、その人もみんなと楽しそうにお弁当を食べながら談笑していた。お弁当を食べ終わったあと、この人はギラギラ照りつける日差しの下、難しそうな本を読んでいるのだった。作業中に通りかかったことがあったが、この人もまじえて、みんなで競馬の話を楽しそうにしていた。
(あの作業員たち、ラクそうだなあ)
彼らを見て、また私はそう思った。
外野から見るとラクそうに見える。そんな仕事はすごく多い。ちょっと考えれば分かるけど、他人と丸一日一緒に働くわけだから、ラクなはずがない。居酒屋の店員も道路工事の作業員たちも、人間関係があるだろうし、見えないところでのストレスの溜まる雑務もあるだろう。どんな仕事をしても、どんな職場に入っても、人間関係のストレスからは逃げられないし、不愉快な経験からも逃げられない。そうとは分かっているのに、つい「この人たち、ラクそうな仕事をしているなあ」と思ってしまう。
こういう私の考え方、直さなければならないと思う。