握手。
オフィスビルの掃除のアルバイトをしていたことがある。有名企業の本社で、十階建て以上の高さがあり、それだけに清掃作業員の数も多かった。
理由はよく分からないが、そのオフィスではよく引越のようなことをしていた。社内での移動だろうか。八階の部屋にある机や椅子などをすべて取っ払って、それをそっくりそのまま二階へ移動する。年に何回か、そんなことがあった。
我々清掃作業員はそれら引越作業には関わらない。専門の引越業者が来る。引越の日になると、該当するフロアは掃除はせず、引越業者にそのまま任せる。だが、エレベーターだけはみんなで共有するので、顔を合わせることはあった。
その日、私は一階の床をモップがけして、そのまま道具を持って十一階まで上がる予定だった。私の乗ったエレベーターは途中の三階で止まり、どやどやと引越業者が乗ってきた。
(ああ、今日は三階で引越か)
そんなことを思いつつ、エレベーターの「開くボタン」を押していたのだが、エレベーターが閉まると、一人の中年の引越業者が私に近づいてきた。
「あんた、このビルを掃除してるの?」
「はい、そうです」
「俺は見ての通り、引っ越し屋なんだ。お互い底辺の仕事だけど、どんなに見下されても頑張ろうな」
そういって、その人は右手を差し出してきた。握手しようということなのだ。
握手しようかどうか、私は迷った。当時、私は大学生だったのだ。ビル掃除はあくまでも学業のかたわらのバイトであり、生きるための本業ではなかった。私は正直に言った。
「僕、大学生なんですよ。掃除の仕事はバイトなんです」
すると、引っ越し屋さんは急に不機嫌な顔になり、握手の手を引っ込めた。
「なんだよ、学生かよ」
チッと舌打ちをしたような音がしたことを覚えている。その後、また途中の階でエレベーターが開き、今度は清掃作業員で、正社員の太郎さんが乗ってきた。引っ越し屋さんは太郎さんにも話しかけた。
「あんたは掃除の仕事でメシを食ってるの?」
「ええ、そうですが……」
正社員の太郎さんがそう答えると、引っ越し屋さんは今度は満面の笑みを浮かべて、
「いやあ、そういう人に会えてよかった! お互い底辺の仕事だけど……」
とさっきと同じセリフを繰り返した。太郎さんは苦笑しながら握手に応じていた。
その仕事で食べているけど、その仕事を恥じている。そういう人にはいくらでも出逢ってきたけど、あの引っ越し屋さんのように下級労働者を捜し回っては握手を求めるという人には初めて会った。
(なんだか可哀想な人だな)
そう思ったことを、今でも覚えている。