オタクと形而上学(旧:山中芸大日記)
愛知県立芸術大学出身のある学生によるブログ。
論文公刊&2016年6月の読書メーター
まず、拙論も掲載の学会誌『京都ユダヤ思想』第7号が出ました。
先日(6月19日)の学術大会で会員に配布されました。
拙論のタイトルは「死と復活の意味―アグノンとレヴィナス―」です。
今回は商業出版ではありませんが、京都ユダヤ思想学会に問い合わせれば売ってもらえるのではないかと思います。
……近年、HPの学会誌の項が更新されてないのが気がかりですが。
京都ユダヤ思想学会
リトアニア出身、フランスで活躍したユダヤ系哲学者のエマニュエル・レヴィナスに、ヘブライ文学作家シュムエル・ヨセフ・アグノンの著作を論じた小論があります(『固有名』収録)。
レヴィナスは今や哲学界で人気の一人ですが、あいにくとヘブライ語で書かれたアグノンの著作の方はほとんど知られておらず、「アグノン論」はレヴィナス研究においてもマイナーな題材であり、それを検討した論文となります。
何の因果か、他人の発表からこの「アグノン論」に興味を持った私は、語学が趣味でヘブライ語も学んでいたこともあり、アグノンの当該作品を読む読書会を開始、ついにはアグノンとレヴィナス、いずれも専門家でもないにも関わらずその成果を発表すべく京都ユダヤ思想学会に入会してしまい、入会から1年と数ヶ月で公刊に至ったという、これまた数奇な背景のある論文です。
しかも、京都ユダヤ思想学会は論文投稿者が査読者を指名した上、投稿者が査読コメントに応答するという独自の制度を取っており、査読者からは全ページについて実に詳細なコメントをいただいて、大幅な改稿も行いました。
査読者の意見も大きく取り込んだ結果、元々は誰の着想だったか……という点も(もちろん、論文として出典そのものは明記しているのですけれど、問題はその資料の解釈の仕方です)。
しかしある意味で、「我と汝」的な対話を方針として掲げる京都ユダヤ思想学会に相応しい論文となったのではないでしょうか。
論文の末尾に名が記載されているだけですが、査読者御両名には篤く感謝申し上げます。
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さて、先月の読書メーターまとめです。
18冊3827ページにとどまりました。
余計なことをしていたというのもありますが、ライフスタイルの変化を感じます。
抜粋……も少しだけで。
【漫画】
(前巻のレビューを含む記事)
これにて完結。第4の殺人が起こり、阿部が逮捕される。事件は幕引きに見えたが、英玖保はこれで終わりとせず…。はっきり二重人格の語を出すなど阿部の異常性に答えを求める解決をより念入りな形で描き、また阿部と被害者遺族・まり子との関係を入れる等して彼の描写を深めているのは実にいい感じ。原作を読んだ時にも真犯人の印象は薄かったが、あまり印象は変わらず。正当派すぎるせいか。ただその設定と謎解きの伏線は古典の名に恥じず、コミカライズとしても上出来だったかと。さらっと阿部定を絡めてくる辺りも、時代背景を活かしていて秀逸。
【学術書】
相対性理論を巡るベルクソンとアインシュタインの論争。理論の形成と紹介といった前史から1922年4月6日のフランス哲学協会での対論、そして後年の影響まで含めたその顛末。両者の生涯、人物像、思想史的な影響関係から交友関係まで徹底して洗い出す仕事ぶりは圧巻の一言。電信・映画といったメディア・情報技術の発達という時代の流れの中に相対性理論とこの論争を位置付けているのは著者の特徴。哲学的議論の掘り下げというよりは思想史的調査が主だが、この主題を研究するならば基本文献となるべき一冊。
非常に素晴らしい1冊で、自分で翻訳してみたいと思ったくらいです。需要はないかも知れませんが。
読んだ本の詳細は追記にて。
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時々、このゲームの話もしてきました。
もっとも、私が自分の手で実際にプレイしたのは『VI』までで、『VII』と『VIII』は家族がプレイしているのを後から見ていただけ、『IX』以降は見てもいないのですが(だから、だんだんストーリー認識が怪しくなります)。
最近になって『VII』は改めてプレイしたりしましたが。
ただし、今回は『VII』の話ではありません。
今更な話ではありますが、『ドラクゴンクエストV 天空の花嫁』と言えば、言わずと知れた、主人公6歳の時からの半生を描き、物語の中盤で主人公が結婚するというシナリオが強烈なインパクトを残した作品でした。
そして主人公の嫁候補が2人いて、「どっちを選ぶ?」という展開であったのも、とみに有名。
ただ、(これまた周知のことではありますが)この選択、まったく非対称なのです。
ビアンカは主人公の幼馴染みで、幼年時代にも一緒に冒険したことがあり、そして花嫁選びの直前まで主人公の冒険に同行していました。それに対してフローラとは少し前に出会ったばかりで、さしたる恋愛フラグもなし。大富豪ルドマンが家宝の「天空の盾」を娘の婿に与える、と宣言していることから、天空の盾を求める主人公は品目当てでなしくずしで花婿候補に立候補した格好です。
しかもフローラに想いを寄せるアンディという青年がいて、主人公がビアンカと結婚した場合はきっちりフローラと結婚しているのに対して、主人公がビアンカを選んだ場合はビアンカはずっと独身のままという辛さ。
そもそも、パッケージをはじめとする公式のイラストからして、基本的に主人公と一緒に描かれているのはビアンカで、息子と娘のイラストもビアンカと同じ金髪というあからさまさ(私のように二週目プレイで両方を試さなかったものぐさなプレイヤーは、そもそも子供たちの髪の色が母親に合わせたものになることにすら長いこと気付かなかったり)。
さて、これはあからさまに意図されたことのように思われます。
というのも、制作者の堀井雄二氏からして、「9割方の人がビアンカを選ぶと思ったが、思ったよりフローラを選ぶ人もいた」と言い、さらにはリメイクに当たってデボラという3人目の嫁候補を追加してかなり議論を呼んだ(※)のですが、これも「思ったよりフローラを選ぶ人がいたので、誰も選ばなさそうなキャラを作ってみた」との談なのですから(その意味では、リメイクだと幼年時代からフローラとの接点が描かれたりしているのも、「ぽっと出のキャラだったフローラに対する救済」というよりも、「フローラをあえて“選ばれないキャラ”にする必要がなくなった」とも考えられます)。
※ 上述の通りで、リメイク版については私はざっと見ていただけですが、『V』はシリーズ中でもリメイクによる改変が本編ストーリーに及んだものの一つで、そのしわ寄せは他にも少なくない感はありますが。
つまるところ、制作者は「どちらも捨てがたくて、迷う」選択ではなく、「初見ならおのずと一方に決まり、選択の余地はない」選択を作ることに熱心であったように思われるのです。
ギャルゲーの制作者ならば、いずれのヒロインにも選びたくなる魅力を設定して迷わせるところかも知れませんが(とはいえ、世の中には常識外れのゲームもあるので分かりませんけれど)、この場合はそうではないのです。(※※)
※※ 念のために言っておきますが、これはもちろん、「どちらが良いか」「どちらが正しいか」という話ではありません。
ただ、作品の意図として選択が非対称になるよう、大多数のプレイヤーが一方を選ぶように作られている、ということに注目したいだけです。
もちろん、「大多数のプレイヤーが選ぶ」方を選ばなかった人に何か悪いことがある、というわけではありません。少数派であることや他人の意図通りに動かされないことは、必ずしも悪いことではないのですから。
考えてみると、ゲームには存外、こういうことが多いのです。
一方で、特定のアイテムを手に入れるとかフラグを立てないと次のイベントが起こらず、先に進めないという形で完全にルートが固定されていることもありますが、他方で、「その気になればルートを外れることもできるけれど、初見で普通に半田してプレイしていれば、だいたいこうなる」という風にプレイヤーを誘導していることも多々あります。
あるいは、予備知識があれば回避出来るけれど、初見だとだいたい誰でも引っ掛かる難所とか。つまり、誰でも同じように考えるということです。
そしてゲーム制作者なら、そういう誘導の仕方は周知のことでしょう。
ゲームには確かに選択肢があり(「はい/いいえ」の選択肢だけでなく、キャラのパラメータをどんな風に育てるかといった、ほとんど無数の可能性があることまで)、プレイするたびにその選び方を変えることができます。
しかし、選択肢が存在することによってかえって、「実質的には、人にはそれほど選べる可能性は多くない」と思い知らせてくることもあるのです。
「“ゲーム的想像力”の世界=多様な可能性が並置された偶然性の世界」という見方に対し、私がどちらかといえば批判的なのも、こういうことがあるからです。
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このブログもまだ畳むつもりはありません。
先月の読書メーターまとめです。ご覧の通り、読書登録も先月下旬から滞り気味ですが……
18冊4023ページでした。途中まではもうちょっといけそうだったんですが……
以下抜粋です。
【学術・人文系】
もっぱら西洋美術のイメージに登場する「天使」達にまつわる多様な芸術史・思想史的トピックを概観。キューピッドを初めとする異教の神々との交錯、天からの使者としてのキリストとの関係、音楽との関わり、堕天使、そして現代文学や映画にも生きている天使達……異教や異端のイメージをも自在に取り込み、時には堕天使が英雄に転じたりもしながら、神の死後も生き続ける天使達。参考文献の指示が簡素で、もっと詳しく学ぶにはやや不便さもあるが、相変わらず著者の広範な知識とその絡め方には感心させられる。
デリダ『声と現象』。最新第5版にて。フッサール現象学における「記号」の問題に着目、その読解を通じて、フッサールの根底に横たわる「現前の形而上学」を指摘、さらに現前に非現前が分かちがたく結び付くこと場面を示して、その内在的な批判を企てる。名高い「差延」概念も登場するが、説明は少なめ。フッサールが根本的と見なす分割線がズレることを示す議論の手腕は巧み。無論デリダも現在が現前し、そこからしか始まらないことは認めるのであって、関心事はむしろそれを捉えようとしてつねに捉えきれない哲学の歩みそのもの、なのであろう。
邦訳は下記↓
実在の直接的認識としての直観を認めたベルクソンと、それを批判したデリダの哲学を対話させる試み。まずデリダ側にベルクソンを引きつける先行研究が多いのに驚き。本書は両者の共通点と距離をかなり公平に分析しているし、直観の可能性に関するベルクソンの議論の不十分さや、直観における知的操作の重要性等は優れた指摘が見られる。ただ、デリダ批判には向かわず、ベルクソンの不足を補いその立場を救う議論は可能性の示唆で終わっている辺り、著者もどちらかというとデリダ寄りか。なお個人的に、直観理論はこれで汲み尽くされたとは思わず。
【学術・自然科学系】
原題からしてThe Origin of Fecesとダーウィン『種の起源』のもじり、そして文章もジョークと言葉遊びが目立つ。元々多彩な隠語が使われる分野であり、本文もその話から始まっているし。糞の生物学的な構成要素と起源、公衆衛生に環境の問題…と糞便にまつわるトピックを網羅。排泄物の処理は社会・政治・自然環境・医療等の様々な分野に、すなわち複雑系としての世界に関わり、直線的な解決は別の問題をもたらすという指摘は、人が目を背けがちな問題だけに一層興味深い。食料取引による栄養の移動という問題の強調も印象的。
ただでさえ下ネタは言い換えが非常に多い上、翻訳も難しいところです。
本書の中でも数え切れないほどに連発される"shit"の訳語が「ウンコ」だったり「クソ」だったり……
邦題は『可能世界と現実世界』。分子生物学者フランソワ・ジャコブのエッセイ。全てを説明しようとするのは神話の特徴として科学の限定性を強調、進化論で自然選択を万能の原理にすることにも批判的。進化においては既存の要素による「制約」を強調し、「ブリコラージュ」に喩える。最後は時間の重要性。「可能なもの」に関しては、生物の形態が様々にありえた可能性の一つであること、生物の知覚が数ある可能性の一つであること等様々な用法があり、最後は社会論にも結び付くが、「可能性」「偶然」概念の規定が不明瞭なのはJ・モノーと同じか。
邦訳は下記↓
読んだ本の詳細は追記にて。
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まあ何はさておき、今月の『マガジンSPECIAL』の発売日になりました。
『絡新婦の理』コミカライズの第13話掲載です。
内容的には当然ながら前回の続き、原作第7章の後半に当たります。
聖ベルナール女学院にやってきた探偵・榎木津礼二郎は美由紀に会うなり、さっそく犯人を指摘します。
(京極夏彦/志水アキ「絡新婦の理」、『マガジンAPECIAL』2016年No. 6、p. 619)
榎木津を知らない人は誰もが驚く、以前に理解出来ないスピード解決ですが、ただ本作に限ってのポイントは、すでにこの前の益田パートで「誰を疑うべきか」の指摘はなされており、読者としては榎木津の犯人指摘を理解出来るということ。
目撃者の美由紀からして、なぜ榎木津がいきなりそれを見抜けるのかは分からないままに、「なるほど、あいつが犯人ならば辻褄が合う」と理解します。
その点で、本作においてはむしろ、「榎木津がその特殊能力で何を見て何を言っているのか分からない」という場面は少なめです。
ただ、そうやって一つ一つの事件について何が起きているかは比較的明快でも、それは事件が起きてからの犯人当てにすぎず、事件が事件を呼ぶ全体の構造――「蜘蛛の巣」――は解きほぐしがたく、誰もその連鎖を止められない――それが本作の事件の恐ろしく、厄介なところです。
さて、今回の見所はまず、探偵サイドの人間たちが美由紀の証言を理解してくれるのに対し、彼女のことを端から信じようとしない学長たちの愚鈍さ・醜怪さの対比でしょう。
真相を遠ざけるだけの無能な関係者・捜査者というのはミステリの定番ですが、美由紀パートは主役が大人の力に翻弄される立場の女学生であるだけに、いっそうその嫌らしさが際立ちます。
まあ、美由紀と榎木津が会っているのは前回ラストから今回冒頭のわずかの間だけ、会話はまったく成立していないのですが、(顔がいいだけでなく)美由紀の見たことを見通している榎木津に、彼女は独特の信頼を感じています。
何しろ、探偵助手の益田はというと、
(同誌、p. 623)
美由紀の脳内では本人の名乗りよりも榎木津による(間違った)益山という呼称の方が優先されるような扱いですし。
とりわけこの漫画版では、当初は「どうこの人も信じてくれないだろうし…」と原作よりも益田に対する不信感が印象付けられました。
それでも、益田は美由紀の話をちゃんと聞いて信用してだけに、一定の評価はされます(頼りないせいか、信頼というには今一つな扱いですが)。
他方で、前理事長の腹心・海棠は、横柄な態度を取っていたかと思うと、相手が榎木津財閥の御曹司と知って一変する卑屈さ。
(同誌、p. 620)
学長に至っては、美由紀の発言をまったく信じようとせず、「妄言」だ何だと罵ります。
(同誌、p. 625)
美由紀と織作碧のどちらを信じるかとなれば、学院一の優等生で経営者一族の娘である碧を取る、という態度も露骨ですし。
(同誌、p. 629)
碧の可憐で無垢なイメージがまた、見事です。
(同誌、p. 631)
この表現だと学長がロリコンっぽく見えますが、多分性愛の問題ではなく。
何よりの問題は、「黒い聖母」というのが殺人鬼の仮称であることを全く理解せず、いつまで経っても「そんな怪異がいるわけがない」「木像が動くはずがない」と言っていること。
(同誌、p. 637-638)
「分かってるじゃないか」と美由紀が(内心では)上から目線で思ってしまうのも、そのことがちっとも伝わらない大人ばかりを相手にしていたから。
原作では「他の連中は大人のくせになんでこの程度のことが理解できないのか、美由紀には理解できない」という一文があって、ある意味で痛快でした。
もう一つ、愚鈍な大人たち相手の痛快は、この「知らないならいいです」。
(同誌、p. 640)
ちなみに、原作の文章では学院上層部の人間は学長・教務部長・事務長といたのですが、漫画ではこの禿頭が学長で、すると横の眼鏡が教務部長でしょうか。個人的には驚く程にイメージ通りです。
なお、原作の設定だと礼拝堂の壁に刻まれているヘブライ語は何かの引用とかではないのですが、この漫画の絵では何が書かれているのか、未確認です。書体は聖書写本の類で見たような感じですけどね。
こういうのは、オリジナルの文章を書こうと思ったら専門家のアドバイスが必要な場合もありますし、大変なところです。
さて、今まで原作の1章を連載1話に収めるにせよ、数話に分けるにせよ、原作の章の区切りが漫画の話の区切りに一致していたのですが、実は今回のラストは実は原作第7章の最後まで行っていません。
第2話、第6話、第11話と「事件が起こり、新たな死体が出て引き」という形になっていたのですが(これはそれぞれ原作第2章、第3章、第6章の締めと一致しています)、今回もそれと同じ形になっています。
確かに、同じパターンの引きの繰り返しであることはそれほどマイナスにはならない、死にはそれだけの力があります。
今回は「まさかこんな結果に……」というインパクトもありますし。
連載漫画の構成としては、ありでしょう。
ただ、原作7章の残りは、犯人を取り押さえるアクションと若干のやり取りくらいで、そう紙面を要するとは思えません。
とすると、次回の構成はどうなるのでしょう。
原作8章――ふたたび益田パートで舞台は京極堂――に移ってしまって、この後の顛末は回想で語るという手もありかも知れませんが、はてさて……
とにかく、今回も漫画として魅せるための工夫をしつつ、原作の嫌らしさ、痛快さ、悲劇の衝撃といった持ち味をしっかり押さえており、素晴らしい出来でした。
次回はどう運ぶのか、期待して待ちましょう。
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テーマ : 大学生活 - ジャンル : 学校・教育憎しみと幸せと――『異世界拷問姫』
それでいて、アプリを最新版に更新するよう定期的に要求してきたりしますし……これも業者の罠でしょうか。
そもそも、通信料が光熱費に匹敵するところからして疑問は持っています。
まあ便利ではあるのですが。雨雲の接近までいちいち教えてくれますし。
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さて、今回取り上げるライトノベルはこちら、ファミ通文庫で『B.A.D.』、『アリストクライシ』、『ヴィランズテイル』といった作品を刊行してきた綾里けいし氏、MF文庫Jに移っての新作となります。
ちなみに、綾里氏は一時期、新レーベル「Novel 0」(元MF文庫Jの編集長が立ち上げたレーベルで、MF文庫Jからの移籍組も多い)での執筆予定作家にも名前が入っていたのですが、結局こちらになったのでしょうか。
本作は異世界召喚もの、という体裁になっています。
主人公の瀬名櫂人(せな かいと)は父親に虐待され殺された少年。しかしなんの因果か、彼の魂は異世界の「拷問姫」エリザベート・レ・ファニュによって召喚され、新たな生を与えられて、執事(バトラー)として仕えさせられることになります。
エリザベートは無数の民を拷問にかけ虐殺した過去を持ち、現在は教会の命によって13体の悪魔を狩る身。そして、その命を遂げた後には、彼女自身も処刑される運命だというのですが……
まず第一のポイントは、当世流行りの異世界召喚(あるいは、死んでの召喚だけに転生との中間かもしれません)のフォーマットを採用しつつ、「残虐に凄惨に殺されし、罪なき魂」を呼び寄せていたエリザベートのもとに異世界の魂が紛れ込んでしまった、新たに与えられた肉体も作られたものだが魂に合わせて元の世界と同じ姿になっている(ただし、人間よりも不死身に近いので酷い目に遭っても大丈夫)など、独自のもっともらしい設定を与えていることでしょう。
大体、異世界召喚というと最初から向こうの人が「異世界人を呼ぼうとした」、転生ならば人の魂を司る神的存在の仕業か、さもなくば説明なし――といった設定の作品が多い中で、注目しても良いでしょう。
そして、異世界で新たな生を得たとあれば、どう異世界生活を謳歌するかが主題となるのが普通ですが、本作の主人公・櫂人には、元の世界での不幸な過去と父親への憎しみという問題が付きまといます。
父親への復讐を果たさせてやる、という誘惑を前にしたらどうするか――というのが一つの山場であり、まrたそこで、単純に新たな人間関係や幸せによって吹っ切るという綺麗な形にならないのが、作者らしさでもあります。
憎しみのような想いは確かに簡単には立ちがたいものですが、綾里氏の場合、復讐を果たしたからといってそれで決着して前に歩き出せるとも限らない、そのことによってますます破滅していくというのもパターンですし。その辺の情念の描き方はやはり一級品です。
そして、そんな過去の不幸と、新たな生への幸福の可能性に対応するように、櫂人を凄惨な戦いと殺戮のあるこの異世界へと呼び寄せたエリザベートはたしかに物語の軸となるヒロインですが、他方で彼に恋愛感情を向けるヒロインは別に、人形のヒナという娘がいるです。
ヒナはどこまでの献身的で、強く、ハイスペックで、しかもその櫂人への想いは恋人としての愛なのだとはっきりしています。
思えば、同作者の『B.A.D.』でも、物語の中心であり主人公と離れがたい関係にある繭墨あざかとは別に、恋愛面のヒロインとしては白雪がいましたし。その辺、「ヒロイン」を恋愛方向に傾ければいいわけではないという方針ははっきりしています(『B.A.D.』の場合、主人公の小田桐とあざかの関係が小田桐の孕む娘・雨香を挟んだ三者関係であるところが、さらに複雑なところなのですが)。
さらに本作の場合、エリザベートがなぜ殺戮を行う「拷問姫」となったか、という彼女の問題がもう一つの話の軸としてありますから、櫂人とエリザベートをW主人公と見ても良いでしょう。
また、櫂人の視点からエリザベートの個人的な過去や感情を描いて、両者の物語をセットで纏めているのも、上手いところですね。
主人公の視点で語られる物語において、主人公以外の内面を直接描くことはできない(視点を変えて書いたところで、それが主人公の直接伝わるわけではないので、「主人公にとって謎であった人物の背景を解明する」には不十分)わけで、ともすれば客観的で味気ない語りになりがちです。『B.A.D.』の場合、雨香の能力によって小田桐が他人の感情や記憶を見ることができるという設定が、ここで役立っていました。本作も、エリザベートと櫂人の繋がりが活きています。
他方で、悪魔との戦いに関してはかなり展開が速め。
戦闘描写もあっさり気味ですし。ついでに、エリザベートは拷問具を操って戦うのですが、ただ敵を殺戮するだけで、別に尋問するという意味での「拷問」ではないんですよね。
とはいえ、それでも描写は残虐で、精神的にえげつないエピソードも多いのですが、そもそも思い入れができる前にキャラが死んだりするので、一つ一つのエピソードはかなりあっさりしている感はあります。
そして、最後は最大の敵とも決着をつけてしまって終幕。
14の悪魔なんて設定した以上、下級の悪魔を何人か倒して、トップは顔見せくらいで続く――というパターンの作品も多いのですが……あるいは『アリストクライシ』で、結局ラスボスとの決着が遠いままに未刊となった反動があるのかも知れません。
まあこの点に関しては、出し惜しみしない良さとも言えます。
ただ、だからといって「めでたしめでたし」では終わらないのが本作の設定。
何しろ、エリザベートは悪魔の討伐を終えれば、処刑されることになっています。そしてその時には、彼女の「所有物」である櫂人も……
しかし、そうした滅びへの道がはっきり用意されているからこそ、はてその結末を回避する道はないのか、回避出来ないとすれば彼等はどんな顔をして結末を迎えるのか、かえって気になるのも事実。
凄惨な描写の多い作品ではありますが、櫂人、エリザベート、ヒナの3人の日常シーンにはコミカルで楽しい場面もたくさんあって、彼等が一つの「幸せ」を摑めたのが確かに感じられるだけに、救われて欲しい思いもあり、行く末を見届けたくなるわけですが、はてさて、どうなるでしょうか。
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