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共通のテーマを決め、それにそってブログを更新します。 今のところメンバーは3人です。 テーマはメンバーが順番に決め、全員書いたら次のテーマに進みます。
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お題その10~映画館に映画を観に行って、その感想を書く~
あたたかくなってきました。

春の日射しが木の葉にかかり、木漏れ日となり僕らを照らしております。


お題は「映画館に映画を観に行って、その感想を書く」です。

期限は4月17日です。
友達以上恋人未満
他のメンバーから激しい叱責を受けるほどドン引きな締め切りオーバーをした久しぶりのブログ。

お久しぶりです。めちゃ元気です。

最近は新天地で仕事を頑張っている毎日です。一度はもう仕事では行く事も無いかなと思っていた東京に行く事も増えてきた。自分が自分自身として努力が報われる事は本当に嬉しい事。この調子で頑張れたらいいな。

そんなタイミングで今回のお題は「名古屋」らしい。
…正直がっかりのお題だ。「東京」とかなら目一杯書いちゃうのにな。

というのも18歳から上京して音楽活動をしていたり、現在も岡崎や豊田で音楽講師をやっている自分としては何処か「名古屋」という言葉や土地から無意識に逃げてきた人生のような気もするからだ。
これがもっとピンポイントな「鶴舞」とか「吹上」という局地的キーワードだと思い入れたっぷりでテンション上がるんだけどね。

そんな感じで僕にとっての「名古屋」は帯に短し襷に長し、って感じの言葉です。
そんな感じで軽く名古屋をdisるブログになると思うので「名古屋」と聞いただけで頬を紅潮させるような名古屋LOVEの人はここで「戻る」を押してやってくださいね。


しかしまぁ、自分の主観だけでなく日本全国の中で比較してみても名古屋という街はそういう「あの人いい人だけど、恋愛対象じゃないのよねぇ」的な中途半端さは否めない街だと思う。何というか決め手に欠けるのだ。

例えば「札幌」とか「横浜」とかなんか景色や文化的にもいい感じだ(完全に主観です)「金沢」とか「仙台」とか「博多」もシビれる。
「京都」とか「沖縄」とかはもはや土下座状態。完全に敗北。名前だけでご飯三杯はいける。

「住んでるから気づかないんだって!」と思う方が居たら想像してみてほしい。
JR東海のポスターで「そうだ、名古屋にいこまい」なんてポスターは素敵だと思う?仮にあっても僕は行かない自信がある。あれは京都や沖縄にしか許されないブランドだと思うのだ。

その辺の一昔前のサッカー日本代表的な決定力不足は興行的にも反映していて、ライブ公演のスケジュールでもキッチリ名古屋は飛ばされる事も多い。東京に居た時も知り合いのミュージシャンとの酒の席で「名古屋かぁ、いいんだけど微妙にノリが悪い街だよね…」と苦笑いされた事も多かった。その時は別に自分の事でも無いのに「あはは…ですよね。すみません…」と謝った思い出がある。本当に決め手に欠ける街だ。

…あんまりdisってるとピカイチや味仙に居る時に背後から刺されるので話を変えよう。

その反面、食べ物は本当に美味しいものが多い。東京に住んでいる時には頻繁にホームシックならぬフードシック(そんなんあるのかよ)にかかり、何度スガキヤのラーメンやあんかけスパを熱望し、家族に強引に郵送してもらったかわからない。仕送りではなく飯送り。それほどまでに中毒性のある美味しい食べ物が名古屋には多いと僕は思う。

そこはやはり全国的にも評価されていて、名古屋めしは全国ネットのテレビでも良く目にする事が多い。名古屋愛の薄い僕もここは胸を張って自慢出来る文化だ。

考えてみると名古屋めし、名古屋弁、ドラゴンズ(ドアラ含む)など、味覚的にもキャラ的にも無駄に濃ゆいものが多い。そのラスボス的な位置に今の市長の河村たかしが居る気もする。市長がガンダムのコスプレで記者会見するカオスな街「名古屋」。

…なんか書いているうちにちょっと名古屋が好きになってきた気がする(笑)

まぁ、でも濃ゆい故によそ者を排除する村社会的な文化も名古屋から感じる時も多い。そこは色々思う事はあるんだけど、暗いしつまらないのでまたの機会にしましょう。


そんなわけで自分にとって「名古屋」という言葉は、妙にムズムズする居心地の悪い言葉です。

来月も東京でお仕事頑張ってきます。
その時は友人にきしめんとあんかけスパのソースでも買って行こうかな。

それではまた次回!!




グッドモーニング
おはようございます。



みなさんモーニングしてますか。

ぼくはもっぱらモーニングしてます。





モーニングとは「モーニングサービス」の略称です。これは、喫茶店やレストランが、朝の時間帯にドリンクやトーストなど特定のメニューを朝食として割安価格で提供するサービスの呼称です。



日本初のモーニングサービスが行われた店は、広島市のタカノ橋商店街にある「ルーエぶらじる」で1956年に開始したとされています。



そう、つまりはモーニングといえば名古屋なのです









名古屋なのです。





例えば、東海地区にあるコメダ喫茶店。

コメダではモーニングサービスのある時間帯にドリンクを注文すると、ゆでたまごとトーストしたパンがついてきます。おとくです



そうそう、「コメダ」の名前の由来は、創業者「加藤太郎」→「米屋の息子で名前が太郎」→「こめたろう」→「コメダ」ですと。

そして、コメダの看板デザインは、当時コメダの常連だったデザインスークルの学生からのおくりものだそうです。あのおっさんは、中世のヨーロッパの紳士でコーヒーを飲んでいる様子をかいたそうです。



それだけです。











最近、入り口に「1日中モーニングやってます」っていう喫茶店をみつけました。



そうなのです。これがモーニングなのです。









僕は、名古屋のモーニングという文化が大好きです。







休みの日、早起きした時に行くモーニング



仕事前に行くモーニング



友達と朝まで話し込んでしまった後に、そのままいくモーニング





気怠くて、日がまぶしくて

でもどこかすっきりした、あの朝。



はじまる、朝。





みなさん、よい朝を。
ぼくがぼくであるために

「自分」と「出身地」は切り離せないものなのだろうかと考える。
「ぼく」と「名古屋」は切り離せないものなのだろうかと考える。
なぜなら、ぼくが名古屋を選んだことなんてないのだから。

どれだけ多くの選択権が現代人に与えられているとしても、生まれる場所は選ぶことができない。それなのに、まったく知らない他人に自己紹介をするとき、たいてい出身地が必要になる。好きで選んだわけでもないのに…。自分が選んだものだけでプロフィールを書くことはできないのだ。
ぼくはできるなら地中海沿岸に生まれたかったと思う。イタリアのあったかい地域で海でも見ながら暮らしたかったなー、と思う。でもぼくは名古屋に生まれた。生まれてしまった。
場所だけじゃない。生まれる時代も。自分の名前も。多くのものは初めから決められている。
でも、自分で自由に選んでいるように思えるものだって、はたして本当にそう言えるだろうか。中学校に入学した当時、もし学校にバスケ部がなかったとしたら、たぶんぼくはテキトーに他の部活に入部して、バスケをやることはなかっただろう。本当にやりたいと思うのならば、バスケットボールのクラブチームを探すことだってできるのに。もし兄からすすめられていなかったとしたら、たぶんぼくはヒップホップを聴いていなかっただろう。Youtubeで検索すれば、他のミュージシャンと同じようにいくらでも並んでいるのに。
つまり、「完全に自由に」なにかを選択することなんてできないんだ。選択肢や可能性は無限のように思えるけど、実は初めから限界がある。ぼくにとって、例えばアイスホッケーや、例えばレゲエミュージックは、確かに存在していたのに、選択肢にすら入っていなかった。その選択肢は場所や環境、周りの人々が規定してしまうのだ。それに、自分の意志は「自由」と言えるほど大層なものじゃない。思うに、人は他人から褒められたことを選択し、けなされたことを選択しない傾向にあって、他人が尺度になりがちだ。

どうして、ぼくは名古屋なんだろう。
「ぼく」と「名古屋」は切り離せないものなのだろうかと、やっぱりぼくは考える。

しかし、はたしてぼくがバングラデシュで生まれていたら、カザフスタンで生まれていたら、ボツワナで生まれていたら、「ぼく」は「ぼく」でありえるだろうか。どこでもいい、フィンランド、韓国、チリ、そこで生まれる「人」は「ぼく」でありえるだろうか。たとえ日本人であるにしても、佐賀県で生まれていたとしても、もっといえば豊田市で生まれていたとしても、「ぼく」はもう「ぼく」ではなくて、「誰か」になってしまうだろう。名古屋に生まれたからこそ、「地中海を眺めながら暮らしたい」なんてことを、ぼくは考えるのだから。名古屋に生まれたからこそ、この家に生まれたからこそ、「ぼく」は「ぼく」であることができるのだ。
だからこそ自己紹介で、胸を張って出身地を答えるべきなのかもしれない。たとえ自分で自由に選んだものではなくても、あらゆる選択の根本に出身地がかかわっているのなら、出身地の喪失は人格の崩壊だ。
それに、たとえぼくが今聞いている音楽や、考えていることが「完全に自由に」ぼくが選んだものではないにしても、ぼく自身、まったく不満はない。
むしろ、ぼくはぼくでよかった。「今ぼくが好きなもの」が、ぼくは心から好きなのだから。マンガが、ロックミュージックが大好きだし、喫茶店のモーニングサービスが好きだから。


なにが言いたいかって、
「名古屋、ありがとう。」
選ばれてくれて、そして選ばせてくれて。

I ♡ NGY
名古屋で生まれて名古屋で育って、25年経った。僕が25年間過ごした街。
その事実以外に、この土地に対しての思い入れは特に無い。
好きも、嫌いも。

名古屋は中途半端な所だ。
東京にはなれないし、東京になれなかった大阪が持ってるようなアイデンティティもない。
去年の年末まで活動していた(解散した。)バンドでは、色んな所を回ったけど、
東名阪以外の土地に住んでるバンドマンの多くが持ってたような、都会に対するルサンチマン(なにくそと思う気持ち)や地元に対する誇りもない。
何もない。




と、ここまで書いて放置してました。ごめんなさい。

そうやって、何もないって書き進めてもいいんだけど、何か違う。
何より、自分が生まれ育った街のことをなんとも思ってない人より、そこに愛情を持って生きている人の方が僕は好きだ。

いくら土地に思い入れはないって言ったって、思い出なら死ぬほどあって、家族や、友だちや、僕にとって大切なたくさんの人たちは、名古屋で生きてる。

いつからか覚えてないけど、大事にするべき人をちゃんと大事にできるようになりたいと思うようになった。
僕が何も言わなくたって、大切な人たちは当たり前のようにそばにいてくれるけど、意識的に感謝や愛情を伝えられるようになりたい。
特に今みたいな時代にこそ。

それは、万人に愛情を振り撒けばいいということでは決してない。
全然違う。
そんな聖人君子にはなれないし、なる必要もなくて。

自分の好きなもの、好きな人、好きな場所を大事にすること、それこそが個性であって、自分の意識ひとつで変えられる世界だと思う。

少なくとも、この短い日記を書いただけで、僕の名古屋に対する考えは少しだけ変わった。

毎日歩き続けた道や、帰り続けた家、今は会うことも少なくなった友達や、いつかの彼女、ひまわり保育園、吹上小学校、学童、北山中学、桜台高校、名城大学、バンドも、今一人で暮らしてる西区も、全部名古屋。
どれもこれも名古屋。

そんなもん、嫌いになれるわけがないでしょう。
どう考えても好きだって。
だから、大切にしたい。


名古屋で生まれて名古屋で育って、25年経った。僕が25年間過ごした街。
その事実を愛せるように。
今、手にしているものへの感謝を忘れないように。

26年目もよろしくね。



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