山口和幸の「ツールに乾杯! 2016」<3>リモージュでアームストロングが演じた奇跡の物語 今も記録に残るツール2勝目
フランス中西部にあるリモージュは肉牛などの第一次産業が地域経済を支える昔ながらのたたずまいをみせる。ツール・ド・フランスがこの地を訪問するのはそれほど多くないが、強烈な印象を残すシーンをここで目撃した。現在上映中の映画『疑惑のチャンピオン』で登場するランス・アームストロングである。
若きイタリアンの非業の死
映画には、1995年にアームストロングがツール・ド・フランス2勝目を挙げたリモージュのシーンは登場しないが、これはまさにアームストロングがツール・ド・フランスに衝撃的なインパクトを与えた日であると思う。
1995年のツール・ド・フランス第15ステージ。ピレネーのポルテダスペット峠の下り坂で、イタリアのファビオ・カザルテッリがクラッシュ。道路脇にあるコンクリート製の車止めに頭部を打ちつけ、24歳にしてその生涯を終えたのである。1992年バルセロナ五輪の金メダリストだった。そして当時は「ノーヘル」がプロレーサーのダンディズムとしてまかり通っていたが、これを機に急速に「ヘルメット義務化」の議論が高まっていく。
悲しみのプロトン
翌日のスタート地点。彼が所属していた米国モトローラチームは喪章をつけ、すべての選手が黙祷を捧げた。この日は葬儀の隊列のように淡々と進み、規定の距離は走ったものの当然のことながらノーレースとなった。何時間も前から選手たちの到着を心待ちにしていた観衆も、誰ひとりとして文句は言わなかった。
2日後の第18ステージ、彼のチイムメイトである米国選手がとりつかれたかのように信じられない独走を決めた。当時23歳のアームストロングだ。のちにがん闘病で生死の境をさまよい、奇跡の復帰を遂げてツール・ド・フランスで前人未到の7連覇を達成。そして映画でも演じられているように薬物使用によって7連覇の全記録を抹消された男でもある。
天にいるはずのチームメイトに
アームストロングはあの日、猛暑のリモージュまで独走を決めると、ゴールまで逃げ続け、最後は天空を仰ぎ、両手の人差し指を何回も、何回も天に突き上げてゴールラインを切った。
「天にいるはずのチームメイトにこの勝利を捧げたい。彼が勇気を与えてくれた」
いつもなら好きになれないこの男のセリフも、このときばかりはグッときた。彼の存在感はフランスでも一気にふくらんだが、アームストロングが次にツールに登場するのは、がんを克服した後の1999年のプロローグまで待たなければならなかった。
ちなみにリモージュでの区間優勝は薬物使用以前の記録となっているので、1993年のツール・ド・フランス1勝目とともにアームストロングの勝利記録として今も残っている。
ツール・ド・フランスをはじめ、卓球・陸上・ボート競技などを追い続け、日刊スポーツ、東京中日スポーツ、ナンバー、ターザン、YAHOO!などで執筆。国内で行われる自転車の国際大会では広報を担当。著書に「ツール・ド・フランス」(講談社現代新書)、「もっと知りたいツール・ド・フランス」(八重洲出版)など。