記念すべき『ウルトラQ』第1話「ゴメスを倒せ!」で脚本(千束北男名義)を担当。トータルで監督として4本、脚本家として5本手がけ、特撮を卒業するつもりが『ウルトラマン』の監督に指名される。最初の3本(制作順)を監督し、シリーズの方向性を決めるという重責を担った。「バルタン星人」の生みの親と称される飯島監督に、当時の撮影秘話や好きな怪獣についてうかがった。
ウルトラマンの監督になった理由。
僕は『ウルトラマン』を撮る予定じゃなかったの。元々TBSでドラマを制作していて円谷プロに出向になって、たまたま『ウルトラQ』の監督・脚本を担当した。最後(放送第10話)の「地底超特急西へ」は楽しんで撮ったし、これで特撮も覚えたから次は別のものをと思っていたら、いきなり「ウルトラマンを撮ってくれ」と言われた。しかも諸事情で僕が最初に3本撮ることになったんです。
「ウルトラマン」の実物を見たのも、マスコミ発表のときが最初。
どんなデザインなのか知らないまま脚本を書いていたから、実物を見て「こんな動けない着ぐるみでどうするんだろう」と思いました。とにかく勝算がなかった。いっぺんに3本だし、カラーだからお金もかかるし、『ウルトラQ』に比べて制約がすごく多かった。全体の企画を考えたのは金ちゃん(脚本家・金城哲夫)なので、最初の打ち合わせにも加わってない。
第1話の内容も知らないし、そこにはふれずに第2話「侵略者を撃て」を書いて、スケジュール優先で、3本混ぜこぜに撮ったから不安でした。ラッシュ(撮影結果を確認するフィルム)が上がるまでは、「エライものに飛び込んでしまったな」と思っていました。(笑)
スペシウム光線は、ひとさし指から出るはずだった。
最初に撮ったので、僕が決めたことをほかの監督が踏襲して、定着したケースも多かった。例えば、「スペシウム光線」。
僕はドラマパートの監督ですから、特撮パートの現場では多少余裕もあるので、殺陣のアイデアを出していたんです。指先を固定して光線を出す技は決まってたんだけど、ひとさし指では「ウルトラマン」が巨大化したときに迫力がない。厚みのある光線にしたいということで、ウルトラマン役の古谷敏さんが、とっさに右手をあげた。でも、片手では安定感がない。僕は戦争には行ってませんが軍事教練は受けているので、銃を撃つときはもう一方の手で支えると教わった。それで左手を添えて十字を組むような、いまのスタイルになった。名前も僕が考えたんだけど、まさか「スペシウム光線」が以後も決め技になるとは思いもしなかったね。
「カラータイマー」もそうです。「ウルトラマン」が強すぎるので、何か弱みをつくらないといけないということで、ボクシングの3分間1ラウンドをヒントに考えた。「カラータイマー」そのものは美術デザイナーの成田亨さんのデザインにもなかったですが、「機電」という電気系統担当の倉方茂雄さんが苦心して、点滅の仕掛けを仕込んでつけたのだと思います。そんな風に個々の担当が現場でアイデアを出して、創りあげていったんです。
※「ウルトラマン」など特撮作品は、俳優によるドラマシーンを撮る監督と、ウルトラマンや怪獣などの特撮場面を専門に担当する特技監督(「特殊技術」とクレジット)がいて、分担して作品を作るのが一般的でした。ドラマ班と特撮班それぞれスタッフも別なのが通例ですが、飯島監督が担当した最初の3本は同じスタッフがドラマも特撮も撮る1班体制で、飯島監督は特撮の撮影にも参加していました。
トラブル続出の前夜祭と歓喜に沸いた上映会。
放送開始一週間前の「ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生」は、番組の前宣伝というのもあったけど、先行き放送のストックが足りなくなることが分かって、急に組まれたプログラムです。7月9日に、旧杉並公会堂で行われた舞台劇を録画して、翌日に放送したんです。
ぶっつけ本番に近くて、リハーサルもできないまま始まった。
僕は怪獣役の役者を送り出す担当でしたが、物語がどう進んでいるのかも分からなかった。とにかく現場が大混乱で、手違いが続出した。編集は僕がやったんだけど、「これ番組になるのかな…」と頭を抱えました。
それでトラブルの部分に、撮り終っていたウルトラマンとネロンガの戦う映像を差し込んで仕上げたんです。
視聴率が30%超えたのでほっとしたけど、あとで観ると面白かったね(笑)。
もう1つ思い出に残っているのは、出来たばかりの第1話「ウルトラ作戦第一号」と第2話「侵略者を撃て」を持って、札幌公会堂で上映会をしたこと。
会場は子供たちで満員の大盛況で、上映前に金ちゃんがテーマソングの歌唱指導をしたら、子供たちはすぐに覚えたの。そして、16ミリ映写機で作品を上映した。終わったあと、子供たちが熱狂して「ワーッ」となって、もう1回テーマソングを歌ったんです。あれが一番うれしかった。
「ウルトラマンができた」と思った瞬間です。
バルタン星人は、もう悪役にしたくない。
最初で一番、苦労したから、やっぱり第2話の「侵略者を撃て」が好きな作品だし、ウルトラマンとバルタン星人が一番好きだね。僕が撮った『ウルトラマン」には、ずっとバルタン星人が登場する。
長い間つきあってきたから情愛が湧いて、もう悪役にしたくないくらい。
あのデザインはね、顔はセミで、爪は戦後どこの川にもいたアメリカザリガニがモチーフです。時々腕を上げて「フォッフォッフォッ」と笑うのは、腕を下げていると爪が重くて大変だったから、休むために生まれたシーン。腕を上にあげて立てていると楽だったんです。
バルタン星人は故郷の星を危険な実験で失って、地球に逃れてきた難民です。科特隊のキャップが「まず話し合ってみたら」と軍に言いますね。ハヤタも共存の道を提案しますが、交渉が決裂して争いになってしまう。
2006年のウルトラマンマックスでは、地球人が火星に移住しようとしていることを「侵略行為」とみなして、バルタン星人が「地球人を懲らしめる」ために攻めてくる。その戦いの最中に、バルタンの一族に古代から伝わる銅鐸の音色を聞いてウルトラマンマックスもバルタン星人も戦いをやめてしまう。
これがウルトラマンです。子供たちの心に、ウルトラマンはただ怪獣を倒すだけじゃない、平和の使者なんだということが残ればうれしいですね。
ウルトラマンよ、永遠に。
僕と金ちゃんは脚本を書くスタイルが違っていたので、一緒に創るのは楽だった。合作なんかの打ち合わせをしていると、僕のなかに少年が降りてくるんだ。そして、金ちゃんのなかにもね。その少年と対話しながら「ウルトラマン」が出来上がっていったんです。
脚本のアイデアは、江戸川乱歩とかキングコングとか、僕が子供時代から読んできた本や映画、そういった自分に蓄積されたものから自然に生まれてきた。
もっといえば先祖からDNAに刻まれた、ずっと深いところから出てきたもの。ウルトラマンシリーズには日本人が受け継いできた物語のDNAが流れている。だから誰に教えられなくても、今の子供たちも共感できるんだと思う。
「ウルトラマン」と出会ったことは感謝しかない。そのおかげで、このシリーズを撮るという栄光を担うことができた。ありがとうと伝えたい。
あそこで出会わなければ、心のどこかに「ウルトラマン」のような世界を表現したい気持ちがあったのに、創らないで終わってしまったと思う。子供たちにも、自分のなかの“光の国”を大事にしてほしいと言いたいね。「ウルトラマン」には、いろんなヒーローのなかで一番であってほしい。これからも、先頭を走りなさいと。“光の国” から来た平和の戦士なんだから。
飯島敏宏監督 プロフィール
1932年9月3日東京都出身。慶應義塾大学文学部英文学科卒業。1957年KRT(現TBSテレビ)入社。演出部でテレビドラマの脚本・演出を手がけた後、1965年円谷特技プロダクションに出向。「ウルトラQ」をはじめ「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」で監督・脚本を務め、数々のウルトラマンシリーズの名作を世に送り出した。2000年代にも、2001年、映画「ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT」、2006年「ウルトラマンマックス」で脚本・監督を務め、平成の子供たちに鮮烈な印象を与えた。著書に「バルタンの星のもとに」(風塵社)、評伝に「飯島敏宏「ウルトラマン」から「金曜日の妻たちへ」」(双葉社)がある。