すっかり博多温泉劇場に溶け込んだ秋恵姉さんと僕は、その日も楽屋で飲んでいた。
福岡市内に住んでいるメンバーは日によって家に帰ることもあったけれど、市外の僕はずっと劇場に泊まっていたので、僕は誰よりも秋恵姉さんと一緒にいた。
今日の部屋飲みは僕しかいないが、その代わり、久しぶりの栗城さんがいる。
そんな中、ごく軽い口調で姉さんがある提案を栗城さんに投げかけた。
「なあ栗ちゃん、コントとかやらせてもらえへんのかなあ?」
「コントって、どこでやりますの?」
「どこって、ここでに決まっとるやろ!」
「はあ……」
「だって、どう考えても足りひんやん」
「まあ、そうですねえ……」
好調な滑り出しを見せた博多温泉劇場の吉本特別公演だったが、正直にいうと、あっという間に集客は苦戦を始めた。
理由は簡単、知名度のある芸人さんが、福岡県民にもお馴染みの芸人さんが、ここには滅多に来なくなったのだ。
プロの世界である。
今考えれば、大阪の劇場よりも安いギャラで、基本的には楽屋で寝泊まりをお願いします。そんな条件でテレビでお馴染みの芸人さんに博多まで来てくれと言う方がおかしいし、来る方も奇特だろう。
もちろん、そんな中でも来てくれてはいたが、それも週末だけのことで、その日は超満員になるものの、同じ金額で行われる平日の公演には閑古鳥の鳴き声が、うっすらと、しかしハッキリと聞こえるようになっていた。
集客が芳しくないと、出演者にギャラが払えない。
簡単な応急措置は、出演者を減らすことだ。
新喜劇がメインの公演で、元々、必要最低限のメンバーでやっているのだから、新喜劇の出演者を減らすわけにはいかない。
そうなると削られるのは漫才師だが、ここを減らすと公演自体が淋しくなる。
結果、漫才と芝居が出来る「秋恵・一の介」と、同じく新喜劇の浜根隆さんと美樹姉さんが組んでいた男女コンビ「浜根・杉本」は、博多温泉劇場のヘビロテメンバーとなり、ずっと舞台に出っぱなしだった。
そんな状況に秋恵姉さんは危機感を抱いていたのだ。
「同じ顔ぶれで漫才も新喜劇もやっとったら、お客さんも飽きるやん。アタシなんか、歌まで歌っとるんやで」
「まあ、そうですわなあ」
「だから、コントさせてもらえへん?」
「漫才はどないするんですか?」
「もちろん漫才もやるけどな、その直後に新喜劇で一の介兄さんと夫婦役とか、精神的にしんどいねん。だって漫才の時とキャラ変えなアカンやん。お客さんも見づらいと思うし、二重人格やないっちゅうねん」
「はあ……」
「……こっちだって、やってて飽きるしな」
そうなんだ。
飽きるという感覚を、稽古以外で感じられるようになれれば一人前の芸人かもしれないな。
ただ、舞台で笑いを取っている姉さんが飽きるのと、笑いが取れていない僕が飽きるのとでは本質が全く違う。
面白くて飽きるのか、面白くなくて飽きるのか。後者は飽きてるんじゃなくて、上手くいかずに不貞腐れているだけだろう。
ずっと宴席を共にしていた僕は、いつしか秋恵姉さんの言動から芸人という職業を考察することが癖になっていた。
だからといって成長するわけでもないけれど、ちゃんと分析して納得しなければ、次に進めないような気がしていたのだ。
極薄に作ったウィスキーの水割りを片手に、目の前のスルメを牽制しながら、僕はふたりの会話を目で追った。
「でも、台本はどないするんですか?」
「あるやん、烏合の衆が」
「ええっ! あれやります?」
「キャストさえ変えたら行けるやろ」
「浜根、文太、沢……行けるっちゃあ行けるか」
「ちゃうよ! 浜根とか文太とか沢やないねん」
「は?」
「この子らとやりたいねん。華と大。」
「え?」
栗城さんより先に、僕が声を出してしまった。
お姉さん、華と大って、華丸と大吉のことですよね?
「だって浜根とか文太は新喜劇で絡むもん。この子らが漫才しかしてないのは、もったいないで。まあ、華はちょっと芝居にも出とるけど、大は出てへんから、ええやん」
口はばったいが、この半年で僕たちの漫才は一定の評価を得るようになっていた。
しかしそれは華丸のおかげであって、笑えるぐらいにハッキリと、たとえば客席から「背の高い方も頑張れ!」などと野次られるほど、僕はいろんな人からツッコミが弱いと言われ続けていたのだ。
そんな僕がコントなんて、それ自体が笑えないコントとして成立するんじゃないか? いや、笑えないから不成立か。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「そうなったら、何しますの?」
「浮気のやつ」
「えーっと、秋恵さんが浮気する人妻役の……」
「そうそう! で、浮気する方が大で、浮気される方が華。これやったら行けるんちゃう?」
「なるほど……」
そう言って目をつぶった栗城さんは、考えたフリでもしていたのか、しばらくするとグラスを片手に、耳を疑うようなことを口走った。
「行けますね」
「そやろ? この子とやったらやれると思うねん」
「確かに、やれると思いますわ」
ご機嫌なところを申し訳ないが、そろそろおふたりを現実に引き戻さなければならない。
宴もたけなわではございますが、そろそろお開きの時間です。
「いや、僕、出来ないですよ」
「え? なんで出来へんの?」
ちょっと不思議そうな秋恵姉さんの方が、僕にはよっぽど不思議だった。
「だって、僕ツッコミとか上手くないし……」
「ツッコミは華やで」
「え?」
「華にツッコミやらすから、大丈夫ちゃう?」
意にも介さない秋恵姉さんに、こんな基本的なことを聞くのは忍びないが、では、僕は何をやればいいのだろう。
「……僕がボケですか?」
「あのコントのボケは秋恵さんや。まあ、本当はボケもツッコミも秋恵さんやけどな」
栗城さんの説明が僕の無職を端的に告げる。
えーっと、ハローワークはどこでしょう?
「大はアタシの浮気相手やから、そのままでええよ」
「うん。お前はそのままや」
そ、そのまま!?
おふたりが何を言っているのかサッパリわからないが、しかしそれでも、浮気相手の役ならば男前の方が適任だろう。
そう直感した僕は、素直にそのアイデアを姉さんにぶつけてみた。
「それやったら、コンバットとか平井の方が向いてません? ふたりとも男前だし、モテるし……」
「ちゃうねん。満も平井もええ顔してるのはわかるけど、これは大やねん。ね? 栗ちゃん」
「うちの芸人から選ぶんやったら、コイツでしょうね」
「いや、このタイプって今は大阪にもいてへんねんで」
「そうですか?」
「もしこの子が大阪におったら、あのコントめっちゃウケる自信あるわ」
話が凄まじいスピードで過大評価の方向に進みだしている。
そこに乗り遅れている場合ではない。
早く会話の流れに飛び乗って、急ブレーキをかけなければ。
「姉さん、なんで僕の方が満さんや平井よりもいいんですか?」
それは謙遜でもなんでもなく、本音だった。
メンバーの中で真っ先にレギュラー番組を獲得していた満さんと、天性の明るさを買われ、実はメンバーの中で一番売れそうだと吉田さんが陰で公言していた平井。
そんなふたりに僕が勝っているのは背の高さぐらいだったし、その身長ですら、吉田さんからは「芸能人は小柄な人が多いから、お前の身長だと並んだ時にバランスが悪くて、テレビでは使いづらい」と、マイナス面ばかりを言われていた。
だから満さんや平井よりも勝るポイントが自分にあるなんて到底思えなかったし、思いもつかなかったのだ。
そんな迷える子羊に同情したのか、少しだけ声のトーンを落とした秋恵姉さんは、僕を正面に見据えながら、ゆっくりと、優しく諭すように言葉を紡いだ。
「なんでって、ニンがそうちゃう?」
「……ニン?」
反射的に伊東四朗さんと忍者ハットリくんが、僕の頭の中を駆け抜ける。
「ニンって、なんですか?」
「ニンはニンやん。えーっと、栗ちゃん、なんて言えばええの?」
「人柄とか、そんなんがニンや。人気のニンやな」
「そ、その、人柄って、舞台でもわかるんですか?」
あんなに面白い人が裏では怖い。あんなに怖そうな人が裏では優しい。
芸能人のよくあるエピソードだし、身近にもこういう人はたくさんいるだろう。
裏を返せば、それだけ「人柄」というものは他人に伝わらないものではないか。
「だから、ニンって人柄だけやないねん」
「はあ……」
「そいつの人生というか経験というか」
「性格とか根性とか度胸とか」
「見た目とかスタイルもそうやで」
「声もそうやな」
おふたりの一生懸命な説明も、例が多すぎてピンと来ない。
「とにかく、ぜーんぶ合わせて、その人のニンや!」
全部がニン? 全部でニン? 全部をニン?
「これがわかったら売れるで。はい!」
出口の見えない会話を終わらせるかのように、秋恵姉さんはウィスキー水割りのおかわりを要求すべく、僕に空いたグラスを差し出した。
僕はお酒を作りながら、先ほどのヒントを咀嚼し、ニンに対して何かしらの答えを出そうとしていた。
吉田さんが言っていた、アレのことじゃないのかなあ?
そう思いついてしまったら、もう聞くしかない。
「あの、ニンって、キャラクターってことですか?」
「ちゃうねん!」
「ニンはニンやねん!」
まるで秋恵・一の介のような、そんな熟練の間で、栗城さんと秋恵姉さんの返答がつながった。
「あのな、大」
秋恵姉さんは少しだけ真面目な顔で、おかわりのグラスを受け取った。
「ニンって、めっちゃ大事やねん。どんだけボケが面白くても、どんだけツッコミが上手くても、ニンがなかったら売れへんねん。それが芸人の世界やねん」
いつになく真剣な表情の秋恵姉さんの横で、栗城さんも頷いている。
「それだけ大事なものやから、教えてあげたいけど、口では教えられへんねん。せやから大も、コントやってみようや。少しはわかるかもしれへんから」
「吉田さんには言うときますけど、まあ、問題ないと思いますわ」
「ホンマ? じゃあ栗ちゃん、早めに台本持ってきてな」
「はい」
「せっかく博多に泊まりで来とるんやから、いろんなことせんと損やもん。なあ、大?」
いつもの笑顔に戻った秋恵姉さんの、この表情がニンなのだろうか?
この空気感、この佇まい、それら全てを合わせたものがニンだとすれば、僕はどこから手をつければ良いのだろう?
先は長いというか、ゴールが見えないというか、そもそもゴールはあるのだろうか。
今日中に答えが出るわけもなかったから、ニンという単語は頭の大事な場所に置いて、ひとまず部屋飲みに専念することにしよう。そう心を切り替えた僕の右手には、無意識の内に狙っていたスルメが握られていた。
「こうなったら、秋恵ちゃんは何でもやるでー!」
そんな姉さんの選手宣誓を、僕は少し硬めのスルメを頬張りながら聞いていた。
福岡芸人とやってきたコントとは全く違うだろうが、告白すると、それまで口にしていたほどの不安は正直、感じてはいなかった。
姉さんと栗城さんが何となく僕を褒めてくれたような気がしていたし、それに——
この時の僕は漫才に限界を感じていたから。
いくら探しても、博多弁のツッコミがどこにもなかったから。
もう、やるべきことがわからなくなっていたから。
秋恵姉さんとのコントに、僕は内心ワクワクしていた。