東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 神奈川 > 記事一覧 > 7月の記事一覧 > 記事

ここから本文

【神奈川】

<参院選>憲法の議論低調 戦争体験者に聞く

 10日投開票の参院選。改憲勢力が非改選と合わせて3分の2を得れば改憲の発議が可能になるが、経済政策や社会保障などの争点に紛れ、有権者の関心もいまひとつ高まっていない。憲法や平和に関する議論が低調なまま選挙戦が進む中、戦争体験者の思いを聞いた。

「私もかつては軍国少年だった。教育は怖い」と語る戸塚さん=藤沢市で

写真

◆為政者根底に「不戦」を

戸塚〓二(きんじ)さん・シベリア抑留93歳=藤沢市

 首をかしげ、嘆く。「安倍さんは、憲法を変えたいと思っているようだけど、何が不都合なのか。考えていることが分からない。説明しないんだもの」

 一九四五年八月、幹部候補生として旧満州(現・中国東北部)の関東軍通信教育隊に所属していたときに終戦を迎えた。召集解除され、入隊前に働いていた現地の会社に復帰したが、同年九月、旧ソ連軍に拘束された。シベリアに送られ、四七年七月まで収容所を転々とし、厳しい抑留生活を強いられた。

 「極寒」「重労働」「飢え」の三重苦。息絶えた仲間を埋葬しようにも、凍った土はなかなか掘れない。木の枝を燃やして浅く掘り、少しの土をかけるだけ。洗面器に川の水をくみ、野草を煮て食べた。「ここで死んだら、何のために生きてきたのか。生きて帰る」。その一心だった。

 「為政者は『戦争をしない』、『国民を飢えさせない』、それが根底になければいけない」と言い切る。一方で「戦後七十年たち、政治家も国民も大半が平和のありがたさを実感できなくなっている」と憂う。

 俳句を始めて三十年。抑留時代を振り返り、平和を願って詠んだ句もある。

 『終戦日 戦後よ続け とこしなへ(永久に)』

 「かつて日本は戦争をしかけた。憲法九条を変えると、昔に戻ってしまうんじゃないか。軍靴の響きが聞こえてくる感じがする。二度と戦争をしないため、戦争を経験した者として黙っているわけにいかない」 (吉岡潤)

 ※〓は土へんに力

「戦争中は国からの発表をまともに信じていました」と話す藤原さん=横浜市瀬谷区で

写真

◆平和なくして人権なし

藤原律子さん・横浜大空襲84歳=横浜市

 「アジアに民主的な国々をつくるなどと言って、焦点をぼかしながら戦争に入っていきました。大切なことを隠しながら変えていく手法は、昔も今も変わっていない」

 憲法や平和の議論が盛り上がらないまま進む選挙戦に、戦前の日本の姿を重ねている。

 女学校一年生のとき、一九四五年五月の米軍の横浜大空襲に遭った。炎に追われ、近所のおばあさんを連れて逃げる途中、目の前を歩いていた少年が焼夷(しょうい)弾の直撃を受けた。ひざから下をもぎとられ、片足ではねるように二、三歩歩いて倒れた。「後になって、あそこで何かすれば助かったのではと思った。何十年も誰にも話せませんでした」

 焼け野原では焼死体を見た。「電信柱か丸太が燃えたみたいに真っ黒。苦しいからか、手を上げたりとかしていた。いかに火が強かったか…」

 戦後、日本に勝った米国も、ベトナム戦争で帰還兵が精神的に苦しんだことを知った。「勝っても負けても、戦争で得るものは何もない」と、戦争放棄を誓う憲法九条に共感してきた。

 空襲から七十一年。今は身近な仲間と話すときも介護や保育など切実な話題が多くなってしまうが、戦争のことも考えてほしいと願う。

 「平和なくして、人権なし。いい制度がいっぱいあっても、戦争になったら全部吹っ飛んでしまうんです」 (橋本誠)

 

この記事を印刷する

PR情報