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高島礼子(51)“リアル極妻”半生記
「渡世のケジメ、つけさせてもらうで」。極妻での決めゼリフさながらのドスの利いた声で会見した高島。尿検査で身の潔白を証明し、父には夫の不祥事を伝えず、ドラマは「責任もって務めたい」という。この肝の据わり具合はどこから来るのか。“女の道”を徹底取材。
「やれるもんならやってみい。煮るなり焼くなりお好きにどうぞ」
映画「極道の妻たち」ばりにそう啖呵を切ったのか。女優・高島礼子(51)は六月三十日、関東信越厚生局麻薬取締部による尿検査を受けていた。夫で元俳優の高知東生(51)が愛人・五十川敦子容疑者(33)と共に覚せい剤取締法違反で逮捕されたのが二十四日。それを受けての決断だった。
「女優としてのプライドをかなぐり捨てて自ら身の潔白を証明したのです。四日後の“シロ判定”に関係者はホッと胸を撫で下ろしていました」(社会部記者)
三十日に京都で開いた謝罪会見では「まだ妻ですから、妻としての責任がある」と発言するなど気丈に振る舞った高島。この“リアル極妻”とも言える肝の据わり方はいかに培われたのか。
一九六四年、高島は横浜市内で二人姉妹の妹として生まれた。父は大学などで英語を教える厳格な教育者だった。県立高校時代の同級生が証言する。
「大人しくて可愛い子でした。マドンナ的存在で一番モテていた。球技大会など学年の行事の時は、写真をバシャバシャ撮られて、それが裏で売買されるほどの人気でした」
だが、彼女には別の一面があった。
「じつは母親に買ってもらったバイクで夜中走り通し、週末ともなれば五〇年代に流行った、いわゆる『フィフティーズ』の音楽に乗ってディスコで踊り、朝まで過ごすこともあった。大のクルマ好きが高じてガソリンスタンドでアルバイトをしていたところ、上級生から『可愛いからって舐めんじゃねえ』と“焼き”を入れられることもありました」(地元関係者)
高校卒業後、彼女は日産の子会社に就職。総務部総務課で保険業務などを担当していた。彼女を知る芸能関係者がこう明かす。
津川雅彦は「パンツ脱がせた」
「彼女を中心に女十人で原付に乗って箱根を爆走したり、レディースそのものでした。当時は芸能界に進む気なんてさらさらなかったらしく、『夢はレーサー。でもタクシーかトラックの運転手になれればいい』と言っていた」
最愛の母がリンパ腺がんで亡くなったのは、二十歳の頃。高島はそれを機に会社を退社し、父の身の回りの世話に徹することになった。だがレーサーの夢を諦めきれず、翌年、A級ライセンスを取得している。
「地元で走り屋のチームを結成し、週末になると四輪を乗り回していた。それで何台も車を潰しまくって、“金欠”になってしまった。困り果てた末、当時給料が良かったレースクイーンの一般公募を受けてみたというのです」(同前)
二十三歳という遅咲きのデビューを飾った高島は、慣れないショートパンツとスニーカー姿で下積み時代を過ごしたという。だが、その美貌は瞬く間に周囲の耳目を集め、八八年には「とらばーゆ」のCMに抜擢された。最大の転機が訪れたのはその年のことである。CMが俳優・松平健(62)の目に留まり、東映京都撮影所に招かれた。高島を知る東映関係者がいう。
「高島君が抜擢されたのは、ドラマ『暴れん坊将軍III』の御庭番という密偵の脇役。当時彼女は二十五歳。打ち上げでは飾らないジーパンにTシャツで来ていたことが印象的だった。驚いたのは、まったく媚を売らないこと。松平健さんなどの大物俳優には仕事に飢えた大部屋女優がワンサカと寄ってくるんだけど、彼女は一切そんなことはしなかった。松平さんは『楽屋の弁当ばっかりじゃつまらないだろ。たまにはメシに行くぞ』と誘ったり、殺陣を教えたりと熱心だったね。彼女の作品を見た津川雅彦さんなんて惚れ込んじゃって『あの子と一度でいいから“交わり”たい』と言っていた。映画『集団左遷』(九四年)で共演をするんだけど、『ここぞとばかりに(劇中で)パンツを脱がせておっぱいを揉み倒してやったよ』と満足そうでした」
高島が「極妻」の四代目ヒロインに抜擢されたのは九九年のこと。同シリーズを手掛けた“育ての親”である関本郁夫監督の証言。
東ちづると一言も口を利かず
「高島君の日本酒のCMを見た東映首脳陣が着物姿に惚れ込んで引き抜いたんです。しかし、(歴代主演の)三田佳子、岩下志麻に比べて、当時の高島君は若かった。それで私は『彼女に合わせて極妻の誕生編を撮ったらいい』と提案したんです。たまたま好きになった男が極道に入り、知らず知らずのうちに極道の女にならざるを得なかったという物語。それがピタッとハマった。撮影期間中、だんだんと着物の着こなしも様になってきて、啖呵の切り方も迫力が出てきた」
じつは高島は、高校時代から仁侠映画のファンだった。憧れは大女優・富司純子(70)が演じる“お竜”。鶴田浩二(享年62)に心酔し、映画「仁義なき戦い」も研究していたという。
「当時、高島君の起用は東映社内でも大きな賭けでした。でも、蓋を開けたら大ヒット。当時の岡田茂会長は『この子はスターになる』と手放しで喜んだ。二作目の『極道の妻たち 死んで貰います』(九九年)は、高島君の他、斉藤慶子、東ちづるという三人の女優が出演しましたが、役柄的には“もらい役(=美味しい役柄)”の東にどうしても目が行ってしまう。高島君からは『絶対負けるもんか』という思いが伝わってきましたね。二人は舞台挨拶で一言も口を利かなかった。かくも女のライバル意識というのは強烈なのです」(同前)
東映京都では松平健の他、三田村邦彦(62)の寵愛を受け、“京都妻”と噂されたこともあったが、高島には十八歳から約十年間交際している地元の先輩がいた。
「彼は地元横浜でパチンコ店を経営していた実業家。付き合ったり別れたりを繰り返していたけど、結局はお互いのタイミングが合わず、成就しなかった」(前出・地元関係者)
その実業家は二〇一三年五月、銀行に虚偽の見積書を提出し、一億円以上を入金させたとして詐欺容疑で神奈川県警に逮捕されている。実家を訪ねると父親が猜疑心に満ちた表情でいう。
「アレがどこにいるのかもわからねえよ。高島礼子のことなんて本人に聞かないとわからないから!」
二十代後半には現在服役中の元タレント・羽賀研二(54)と“深い仲”に。
「現在の所属事務所である太田プロは羽賀の紹介です」(別の芸能関係者)
高知と出会い、恋人関係になったのは九六、九七年頃のことだ。当時、高島は三十二歳。二人が交際する直前に約一年、高知と半同棲生活を送っていた元交際相手の女性が告白する。
「その頃、丈二くん(高知の本名)は私と交際しながらも高島さんを狙っていました。椎名桔平さん、とよた真帆さん、高島さんの四人で遊ぶことが多く、私は当時乗っていたSLクラスのベンツで彼の送り迎えをしていました」
その頃、高島は周囲に「私は夢を追う人に弱い」「全部自分がやってあげないと嫌」と本音を吐露している。元交際相手が続ける。
5年前にも高知は昏睡状態に
「最初は高島さんのほうが彼のことに興味を持ったようでした。彼は『子供の頃はお母さんが家にいなかったし、すき焼きも余ったものしか食べられなかったから』と言って、いつも私は彼にすき焼きばかり作っていました。彼はそういう温かい家庭を求める一方で、椎名さんのようなジゴロ的な人にも憧れを持っていた。そんな時に出会ったのが高島さんだったのです」
二人が結婚式を挙げたのは、九九年二月のこと。だが、高島は結婚直前、高知に対し「本当に私でいいの?」と何度も問いかけるほどマリッジブルーに陥ったという。
高島は今回、記者会見で高知についてこう評した。
「同志のような親友のような気持ちでいたので、どちらかというと仲がいい」
その言葉通り、周囲には“おしどり夫婦”ぶりが目撃されている。高知が経営していた恵比寿のエステ店の元従業員が話す。
「高島さんは、高知さんが経営する加圧スタジオやエステを自ら出版社に売り込み、『高島礼子が通っている店』としてたびたび紹介してくれました。撮影の時は必ず高知さんも来て、脇で『いいね! 最高!』などと声をかけていた。常々『本当によくできた奥さんで自分にはもったいない』と言っていました」
だが、高島は最愛の“同志”に裏切られていたのだ。
「今から約五年前、高知は一時期不倫関係にあった元アイドルのAが経営する西麻布のラウンジ『S』に毎晩のように入り浸り、覚醒剤をやっていました。ある日の朝方、高知はオーバードーズ(薬物過剰摂取)でぶっ倒れ、意識不明の昏睡状態になったのです。青ざめたAは、旧知の医師に電話をかけ、『高知さんがシャブをやって大変なことになった。逮捕されないように内密に病院に搬送することはできないか』と相談。当然、医師からは断られ、救急搬送をされたと聞いています」(同店関係者)
高倉健の元付き人で旧知の仲である西村泰治氏(西村石油社長)が語気を強めて言う。
「結婚式を挙げた直後、二人はわざわざ京都まで挨拶に来てくれた。私が高知さんに『礼子ちゃんを絶対悲しませるなよ』と言ったら、彼は『はい、幸せにします!』と。その約束は見事に破られてしまった」
高知は“渡世のケジメ”をどう付けるのか。
「週刊文春」2016年7月14日号
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