「ハイヒールを履く女性を増やして女性をエンパワメントする」という活動目的を掲げた福岡の団体が欧米で強く批判されているというニュースを読んだ。
欧米では女性のドレスコードから性差別的で身体に負担をかけるハイヒールを撤廃しようという運動が起きており、それに賛同するジュリア・ロバーツは素足でドレスにレッドカーペットを歩いたとのこと。「日本は時代に逆行している」というわけですね。
その団体は公式サイトで「日本の女性はハイヒールを履くのが下手でアヒルのような歩き方になってみっともない」と書いており、とくに批判の的になった。相手を恥じ入らせて矯正しようというのは確かにエンパワメントというよりディスパワメントだ。
ハイヒールをネクタイに置き換えるとどこがおかしいかわかりやすい。身体にぴったりしたスーツ姿の男性はかっこいい。でも「ネクタイで男性をエンパワメントする」「日本人男性はネクタイの選び方や締め方が小学生の入学式みたいでみっともない」という団体があらわれたら、男性は勇気づけられるだろうか。これは近年主流になりつつあるクールビズに逆行し、西洋文化に生きるホワイトカラーの男性こそ男の中の男だというメッセージは前時代的だと批判されるだろう。
しかしどうしてこの団体は女性のエンパワメントをハイヒールと結びつけてしまったのかと数日考えていた。そもそもあるべき女性のエンパワメントってなんじゃろ。
「ハイヒールがすきな女」「ハイヒールを履けてこそ女」
わたしはもっぱら踵の低い靴を履いているけれど、ハイヒールとハイヒールでなければまとまらないドレスへの憧れから優雅でうっとりするようなハイヒールを方々探して買ったことがある。ようやく見つけたのはイタリア製の本革で淡いピンクベージュ、ジャストサイズ。いいお値段だった。でも履きなれないから歩けないんですね、これが。
それでハイヒールの履き方指南をwebで調べたり、perfumeの動画やインタビューを見たりした。そしてハイヒール道はかなりの努力と犠牲によって成り立つものだという結論に達し、美しいハイヒールはもっぱら箱の中にある。
ではハイヒールが履けるようになったら女性として自信がつくか、というと、ちょっと違う。わたしは一時期着物にはまっていたので着物を自分で着ることができる。和服を着こなす女性に憧れがある。でも「着物が着られるようになって女性として自信がついた」とは思わない。「着物がすきだから自分で着られてうれしい楽しい」と「大和撫子たるもの着物くらい自分で着られなければ」は違う。
女装によるエンパワメント
着物コミュニティには和服女装を楽しむ既婚男性もいた。細切れの情報を総合するに、彼はどうやら名家の長男で、孫もいる年齢、そして会社の経営者らしかった。女装が好きでドレスを着たりしていたけれど、あるときから着物にはまって所作の美しさも意識しながら撮った写真をblogに上げて人気を博し、オフ会を開いて着物人口を増やし続ける凄腕和装伝道師だ。
同じ系列からハイヒールを履くようになった男性もいると思う。和服の美しさがあり、ハイヒールの美しさ、またヒールが似合うスーツやドレスの美しさがある。それらを好むかどうかは性別に関係ない、というのが近年の社会的な動きではないかと思う。古くは男装の麗人と呼ばれるスーツの似合う女性がいて、フェミニンな色柄スタイルの女装が似合う男性がいる。問題はその人の個性と魅力を表現できているかどうかだ。
わたしはいまでもハイヒールをきれいに履けたらいいなと思う。でも底の低い靴を愛用する自分が女として劣っているとは思わない。わたしの価値は社会的に用意された「女らしさ」という鋳型に沿うかどうかで決まるものではない。そしてそんな風に自分の絶対的な価値を確信させてくれるものこそわたしをエンパワメントしてくれるものだ。
型に押し込む名目としての「エンパワメント」
こうして考えるに本来の意味での「女性をエンパワメントする」とは「男性にはない女性独自のよさを確信させる」ではなく、「女性」という枠に制限されている人が、そこから自由になって、個人としての価値を確信できるよう支援、応援することなんじゃないかなと思う。それはスーツにネクタイが致命的に似合わない男性に「男として自信がつくように」スーツを着せ、きっちりネクタイを締めさせる*2ことではなく、その人に似合うファッションを提案すること、またファッション以外の面で有利に渡り合えるジャンルに気付かせることでもある。
昨今すっかり定着した「女子力」の哀しさがここにある。「女子力」とは言い換えると「嫁力」で、「未熟な若い娘が好むと思われていること」「嫁にもらってもらえそうなこと」の代名詞になっている。そこにあるのは男性に選ばれるにふさわしいとされる古典的な女性の鋳型であって、女子が自分独自の力に自信を持つことを後押しするようなものではない。
では「男子力」という言葉がないのはなぜか。それは男子が受け入れてもらうべきは女子ではなく既得権益を持つ男性であり、求められる資質は単に「能力」「資質」という言葉で語られているからだろうな。男子にもエンパワメントは必要だと思うけれど、その檻はある意味女子向けより巧妙に、独自の資質開発というより社会の公益性に合致するように仕組まれているように思う。