ひきこもりの生活力。
「ひきこもり」と聞くと、日常生活全般において無能な人という印象を抱くかもしれない。なるほど、なかには自室に籠もるだけで、生活能力が乏しい人もいるかもしれない。だが、実際は、そうではない人のほうが多いのではないか。「ひきこもり」という言葉から来るイメージとは違い、生活力のあるひきこもり当事者もいるのではないか。
私は十八歳で一人暮らしをした。一人暮らし初日の夜から自炊をした。米を炊き、おかずにブリの照り焼きをつくったことを今でも覚えている。ワイシャツを切って雑巾を作ったり、ボタンつけも自分でした。十六歳からアルバイトをしていたので、金銭管理は大得意だった。賃貸住宅の会社との契約や役所での手続きも、なんら難しいことはなかった。
一人暮らしをしてみて、私は驚いた。母親のやっていたことってこんなに簡単なことなんだ、と驚いたのだ。
世の中の人は、こういう言葉を非常に嫌がる。
「一人暮らしをしてみて、母さんの大変さが分かった。母さん、ありがとう」
……世の中の人は、こんな言葉を期待している。そこには、母親の苦労を子供に痛感させたいという親側の想いがある。
だが、断言してもいい。料理もアイロンがけも掃除もお金のやりくりも事務手続きも、やってみるととても簡単である。母親はこの程度のことで子供に威張っていたのかと呆れるぐらいである。料理もアイロンがけもコツさえ習得すれば大して難しいことではないし、金銭管理に至っては節約する喜びさえ感じるほどだ。
世の中の人は、ひきこもり当事者がこのようなことを言うのをすごく嫌がる。労働から逃げているくせに生活力を披瀝することが、あたかも矛盾しているように感じるのだろう。
だが、そうではない。労働から逃げてはいるが、生活力はあるということも、充分あり得ることだ。私の想像では、働くことができないけど、家事全般はすべてできるというひきこもりは結構いるのではないかと思っている。労働能力と生活力は別なのだ。
一人暮らしをしてみて、初めて分かった。母親のやっていることが簡単だったことを。
多くの人が嫌がる言葉を、あえてここに書きたい。