「お前に話がある」
「お前に話がある」
父からそう言われて、
(いよいよ来たか)
と怯えながら実家に行くと、
「ビデオデッキが壊れたんだけど、どうすればいいの」
というだけだった。
ひきこもりになってから、「お前に話がある」と言われることに極端に怯えるようになった。「話」の内容が「仕送りの中止」ではないかと思い、恐ろしくなるのだ。
私以外のひきこもりでも、「お前に話がある」という言葉に怯えている人はけっこういるのではないか。親からのあらたまった口調が、ひきこもり生活に対する糾弾を示唆しているようで、恐ろしく感じる人もいると思う。
自分の生活が指弾されるに価するものであることを、私は充分、分かっている。「お前に話がある」と言われるだけの心当たりがあるのだ。「お前に話がある。もうお前にお金は渡せない」といつ言われてもおかしくない。それが分かっているから、「話がある」という言葉に怯えるのだと思う。
母もまた、「話がある」という言葉を多用する。
「あんたに話があるんだけど」
そう言われるたびにドキッとするのだが、父のように、実際はどうでもいいような話であることが多い。先日も「あんたに話があるんだけど」と言われ、ドキドキしながら実家に行ったら、
「年末ジャンボ宝くじは二種類あるみたいだけど、どっちを買えばいいの」
という、どうでもいい話だった。
親は死ぬまで自分を見放さないという確信があれば、ここまでこの言葉に怯えないのだろうけど、そうもいかない。愛情は無限にあっても、実家のお金には限りがある。長い長いひきこもり生活によって、私は実家の財政状態をどん底まで追い詰めてきた。いまこの瞬間、親から「話がある」と言われてもおかしくない状態なのだ。
「父さん、母さん、その『話がある』って言葉、やめてくれないか。ドキドキハラハラするから」
そう言って、あの言葉をやめて欲しい気もするけど、ひきこもり生活の対価として、これぐらいの緊張と恐怖は味わうべきな気もするので、それは言わない。
親の寿命を縮めるような生活をしているので、私も寿命が縮まるような想いをするべきだろう。