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新規エピソード1
記憶を取り戻してから数日。エヴァンはこれといった出来事もなく過ごしていた。
朝、目が覚めると朝食を済ませ、昼までは外で剣の稽古をする。使っている木剣は成長に合わせて大きくしてきたため、今では大人が使うようなものとさほど変わらない。とはいえ、子供の筋力では両手持ちの鉄剣はまだまだ重すぎる。
幾度となく同じ動作を繰り返し、寸分の狂いなく行えるまで体に刻み込む。こうした積み重ねがいざというときに経験の差として現れるのだ。
膂力では劣るものの、剣の技術だけで言えば、従士たちにだって引けを取らないだろう。
暫く鍛錬を続けていると、セラフィナがやってきて、満面の笑みを浮かべながらその様子を眺める。
「セラ、どうかしたの?」
「どうもしませんよ。何もないからこそ、嬉しいのです。エヴァン様がお元気になられたということなのですから」
エヴァンはセラフィナから布を受け取って、汗をぬぐう。
「今日も相手してもらえるかな?」
「はい。エヴァン様といえども、容赦はしませんよ」
セラフィナは笑いながら、木製の槍を持ってくる。怪我をしないように穂先には布が巻き付けてあるものだ。
彼女はダグラス家に来たときから槍を使っていた。かつて習ったことがあるらしい。といっても、奴隷になる前のことだから、随分と昔のことだ。基礎くらいしか覚えていないだろう。
獣人たちの国で学んだことだから、この国の槍術と全然違うのかと思いきやそんなことはない。もしかすると、セラフィナがほとんど覚えておらず、ここに来てから従士たちに教わったことだけ身に付いただけなのかもしれないが。
だが、彼女はどんな流派の名人にだって劣らないと、エヴァンは思っていた。
相対して得物を構えると、やはりリーチの違いを実感せずにはいられない。基本的には遠距離から攻撃できる方が有利である。だが、この世界にはそうでない状況もあった。
エヴァンが侵食領域を広げるなり、セラフィナが飛び込んでくる。放たれた槍を木剣の腹で受け止めると、今度はくるりと回して反対側から石突きで打ち込んでくる。
エヴァンは咄嗟に飛びしさった。すると胸先を掠めていくように槍が動き、彼の広げた侵食領域内に入る。
そこでエヴァンは制御魔法を使用した。対象は槍。更に加速するように力場魔法を用いる。
セラフィナはすぐさま、力場魔法の影響を受けないようにエヴァンの領域から槍を出そうとする。だが、槍に用いられている力場魔法は制御魔法によって調節を受けており、セラフィナが槍に力を加えるたびに、それに対応して変化する。
つまるところ、セラフィナがどのような力を加えようとも、すぐさまエヴァンの意図したように自動で動かされてしまうのだ。
セラフィナは慌てて自分の侵食領域を広げる。セラフィナの方が広がる速度が速いため、エヴァンの侵食領域は狭められることになった。
だが、もう遅い。セラフィナは槍に振り回されながら、エヴァンへと背を向けようとしていた。
エヴァンは木剣を掲げて、飛び掛かる。槍はもう向けられることはなく、仮に不自然な体勢から打ち込んできたところで、制御魔法で調節してやればいいだけだ。
勝利を確信したところで、セラフィナが思い切り背を向ける。
と、次の瞬間にはエヴァンの視界が黄金色で埋まった。
ぼふっと柔らかい感触。セラフィナが狐の尻尾を打ち付けてきたのだ。
このまま剣を振り下ろせば、間違いなくセラフィナに当たるだろう。だが、それでは怪我をさせてしまうかもしれない。
エヴァンは剣を手放した。
すると尻尾が避けられて、視界が開ける。セラフィナの狐耳が目に入ってきた。
「えいっ」
セラフィナが体を持たせかかってくる。それから、振り返るようにして見てくるのだ。どこか悪戯っぽい笑みを浮かべている。
エヴァンがセラフィナを傷つけようとはしないことを逆手に取ったのだろう。そして少々の茶目っ気がこうした行動を選択させたのだ。
このままいいようにされるのは、何となく面白くない。
エヴァンは得意げなセラフィナの頭を、痛くはないようにしつつも、ぐしゃぐしゃになるまでひたすら撫でまわした。さらさらのみかん色の髪の毛は、今は乱れに乱れている。
「……エヴァン様、私をそこらの犬猫だと思っていませんか?」
セラフィナがぷくっと頬を膨らませる。そして尻尾でべしべしと叩いてくるのだ。毛が多いため、叩かれたところで痛くはない。本気で怒っているわけではないのだ。
エヴァンも女性相手にすることじゃあなかったと思い、乱れた髪を直していく。今度もセラフィナはされるがままになっていた。
「君は犬でも猫でもなく、狐だろう?」
「そんなことをおっしゃるエヴァン様には、後で野生の狐を送ることにしましょう。引っかかれてしまっても知りません」
ぷいっと顔を逸らしてみせる。
エヴァンに背を向けているため、彼女の表情は分からなくなった。
「冗談だよ。悪かったって。……えっと、俺はセラはかけがえのない大切な人だと思っているし、狐の尻尾もとても可愛いと思ってるよ。だから、狐の部分もそうでない部分も両方あって、セラだと思っている。何にも取り替えられやしないよ」
「……急に真面目なことをおっしゃるのなんて、ずるいです」
言いつつ、セラフィナの尻尾が左右に揺れる。機嫌が良いときの癖だ。
それから、少しばかり互いに無言になった。
「……獣人でも、いいんですか?」
少しばかり不安そうに、セラフィナが尋ねた。ダグラス領内で獣人といえば、彼女くらいのものだ。ダグラス領のあるハンフリー王国でも多くない。十年前までは、獣人も住む隣国と戦争をしていたからだそうだ。
それゆえに、獣人を下に見る傾向は未だ根強い。
エヴァンもセラフィナが外見について気にしていたことは、薄々勘付いてはいた。だからはっきりと、力強く答える。
「セラはセラだよ。そんなことは関係ないさ。だから、これからもよろしく頼むよ」
「はい。……やはりエヴァン様もエヴァン様ですね。お変わりありません」
そう言って、セラフィナは振り返るなり笑うのだ。
前世の記憶が戻ったとしても、変わらない関係がある。
剣の稽古を済ませ、一番ぽかぽかと温かい時間には二人並んで昼寝をする。昼過ぎに起きてから、生活するための行動に移るのだ。
近くの山に山菜を取りに行くこともあるが、今日は畑の世話をする予定だ。
エヴァンはセラフィナと共に、雨水を貯めてある水槽の水を桶に入れて、離れの庭に赴く。さほど広い面積があるわけではないが、子供二人が手入れするのにはちょうどいい大きさだ。
畑には丸々としたキャベツが出来上がっているのが見える。
「もうそろそろ、収穫できそうだね」
「はい。楽しみです」
水遣りには、陶器を使う。ポットの底に穴をいくつものあけたような物だ。上には取っ手が付いている。
桶に浸してから持ち上げると、底から水が漏れてくるという仕組みだ。
「うーん、このじょうろは改良できそうだけど」
「といいますと?」
「このままだと持ち上げたときにすぐ漏れちゃうだろう? だから、注ぎ口は筒のようなもので普段は上を向けておきながら、傾けると水が出るようにする」
「なるほど、確かに便利ですね。しかし、作るのが難しくなりそうです」
エヴァンには陶芸の知識などないため、どんなものか想像はつかない。
暫し考えていると、魔法で水を持ち上げておけばいいんじゃないかという案が浮かぶ。
制御魔法を用いれば、穴に対して均一な力を加えるのは容易だ。後は水の重さと釣り合うだけの力を与えるように調節してやればいい。
エヴァンは早速魔法を使用。すると初めのうちは水が出たり止まったりを繰り返していたものの、一定の状態に収束する。ぴったりと釣り合ったのだ。
何となくエヴァンはこれだけでは面白みがない気がして、水に対して力場魔法を用いて浮かび上がらせることにした。
疑似的に無重力状態となった水は、空中で静止する。その際、水の凝集力が働くため、球体状の形を取る。広がっていくことはない。
風に揺れてぷるぷると震える水球。セラフィナはそれを眺めていたが、近くにあった木の枝を拾って、つついてみる。すると、凝集力を超えた分の水が飛び出して、侵食領域外に出るなり重力の影響を受けて、エヴァンへと掛かった。
「あ、ごめんなさい!」
「どうせ濡れるからいいよ。ところでさ、力場魔法を用いれば一気に水遣りとかできないかなあって思うんだけど……どうだろう?」
「難しそうですね……」
液体であるため、固体のように簡単に扱うことはできない。
エヴァンはとりあえず水鉄砲のように撃ち出そうとしてみる。侵食領域内にあるうちには、まだ何とかなった。だが、その外に出た途端、重力によってどうにもならなくなる。
セラフィナも試してみるも上手くいかない。
やがて失敗して水を頭からかぶったりしているうちに、セラフィナと水を掛け合って遊び始めた。
畑から返ってきたときには、暗くなりつつある。後は一緒に風呂に入って寝るだけだ。
そんなこんなで、一日が終わっていく。
セラフィナとの日々は、ごくごく平凡なもので何かがあるわけでもないが、楽しげなものだった。

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