おぼっちゃん。

今まで数え切れないほどの職場を転々としてきたけど、多くのところで「おぼっちゃん」というあだ名をつけられた。二十二歳のときに働いていた飲食店でも、三十代前半のときに働いていた工場でも、このあだ名がつけられた。二十五歳のときに働いていた職場では、さらに発展して「おぼっちゃまくん」というあだ名になった。そして、今働いてる職場でも、一部のおばさんから、

「ちょっと、おぼっちゃん! これ手伝って!」

などと言われている。いい年したおじさんに「おぼっちゃん」もないだろうと思うのだが、どういうわけか、どこにいってもこのあだ名がつけられる。

これは、私が「富裕層に見える」からではないと思う。「育ちが良さそうに見えるから」でもないと思う。それを言ってくる人の語感からして、なんとなく「大人しそうな人をからかうニュアンス」が感じ取れるのだ。

だが、外見から来るイメージと実際の姿にはギャップがある。

私の外見は、一部の人には「おぼっちゃん」に見えるらしいが、実際の私の姿はそうではない。行動にはがさつな点があるし、飲み込みが悪く仕事はできない。「おぼっちゃん」というぐらいだから、外見はもしかしたら上品に見えているのかもしれないが、実際の私は「無能な人間」である。

あるいは、この点も加味して、私に「おぼっちゃん」というあだ名がつけられているのかもしれない。多くの人は、私の外見から「仕事ができそう」な印象を勝手に抱いてしまう。ところがいざ一緒に仕事をしてみると、驚くほどなにもできない。そうした現実を目の当たりにして、私をからかいたい衝動が生まれ、そこからややバカにするニュアンスも含めて「おぼっちゃん」というあだ名に行き着くのではないか。

小さい男の子ならまだしも、大の大人(しかも、おじさん!)に「おぼっちゃん」というあだ名をつけることは、ちょっと正常とはいえない。サラリーマンの人で、社内で「おぼっちゃん」と言われている人は滅多にいないだろう。それを考えると、やはり異様なあだ名と言わざるをえない。

私は長いあいだ、ひきこもっていた。だから、年相応の社会常識を身につけることができなかった。もしかしたら、そんな非常識さも「おぼっちゃん」に含まれているのかもしれない。

自分の外見がどうなのか、私にはよく分からない。上品そうに見えるのかもしれないし、頭が良さそうに見えているのかもしれない。

だが、中年になってもこんなあだ名をつけられているということは、それなりに社会から嘲笑されているとみていいのだろう。

8 Responses to “おぼっちゃん。”

  1. 夏乃 Says:

    マジですか。親近感が・・
    たぶん、複数の意味がある気がしますね。
    でも、本当に馬鹿にしてたらウザがられるし八つ当たりされるし、呼ばれる口調に出るのでわかります。
    たとえ出来ないやつだなぁと思われてる事実があったとしても、なかば許されてるから感があるような・・

  2. 夏乃 Says:

    呼ばれる口調っていうか、本当に嫌われてたら、まずアダ名で呼ばれません、ネ^^

  3. 夏乃 Says:

    二条さんのブログ、少し遡って読んでみました。
    ひきこもりでもひとによるんだなぁと思ったり、私も!と思ったりいろいろですね。
    自分と同じ境遇のかた・・きっといません。でも、私は世間知らずできたのでコメント読者さんの話、参考というか・・自分より辛いかたもいる、具体的な話で認識ができました。ひきこもりの枠だけでひとくくりできないことを知りました。自分なんて甘ちょろいと思いました。

    誰にも欠点があって、悩んでて、でも何かいいたいことがあって、どこかにぶちまけたくなりますよね。
    誰かの顔色なんて気にせず、ストレートに。
    私もブログ書いてみたけど、だんだん良い子ぶったものになったりしてきて、その次に愚痴とか書けなくなったから書くことなくなって消しました。私は二条さんより人目が異常に気になるのでネットの見えない目まで気にしてしまう。その意味で重症です。あだ名だって私だったらプライド消してでも、なかば嬉しい事としてしまうと思います。99%の確立で嫌われてきたからです。
    でも、男性はまた別なんですね。二条さんは自己の軸が強くて他人とはしっかりと線引きしてるからですね。気遣いたりなくて、すみません。。私、話したいだけなんです、きっと。

  4. 五条誄也 Says:

    二条さんのご様子、外見を、どれほど想像してみたことでしょう。
    なぜなら、二条さんの厭世的なともとれるめくるめくファンタジー、いやいや、改悛と非難のテンペストの文章を拝読すると、どうして、そこまでも、ということがいつも頭を過るのです。
    でも、今回は今までとは違うとてもハッとさせられるタイトルで、どういうことなのか!と読みますと、なんと二条さんの自画像的告白なのでした。二条さんが実際にお坊ちゃんなのは当たっているのかもしれません。笑

    二条さんはとても素晴らしい感受性と察知力の方です。
    でも、繊細で脆いのに強情。そして、繊細とか感受性という言葉は、もしかしたら該当はしないかもしれません。私自身がそう言われ、それで片付けられた時に、そんな安易に綺麗に言って済ませないで欲しい。悪い人や悪い点を持った未熟者を、こちらを繊細で多感という以前にきちんと判断して先に言うべきであり、自分はとてもまっとうなつもりだ、と、おこがましく、(的)とは絶対に言うつもりなどありません。
    二条さんの毎回のドラマは、何かのシナリオや単発のドラマのように深いものを感じるのは本当です。二条さんの綴る文章に、過去の自分を思い出し、同じように、ある種の切なさで追体験して頷いている人が(私を含め)きっとたくさんいらっしゃると思うのです。

    二条さんの文章の中で、自分を卑下する社会常識の無さを目にする時、私は「二条さんが」まともなのであって、世の(いとも簡単に)を酷く貶すのでありましょう。どうして自分だけが正しいかのような顔と声で群れてつるむのでしょう。本当に美しい誠実とは、上辺の迎合には宿らない。
    私は二条さんが、どうにかして、無理は必要はないけれども、勇気を纏い周囲の未熟を超えて亘って行って欲しいといつも願っています。

    でも、二条さんの中の融通の利か無さ、むかしの・現在の・折々の依怙地には、いつでもちがうちがうと言い続けると思います。それは二条さんが自分の心を書いてくれている面もあり、負けないでほしいと願う気持ちがあるからです。

    そろそろ二条さんの<過去憤り絵巻>も底をついてきたことでしょう。
    私は二条さんには自分を恥じないで飛び出して欲しい。自分を責めないでほしい。
    二条さんは間違ってはいません。「自分を」相手の前で諦めさせるのはも辞めてほしい。だからこそ、超えて行って欲しい。

  5. 五条誄也 Says:

    五条です。すみません。文字が消えてしまって、不可解の多い悪文尽くしになってしまいました。察しておゆるしください。二条さんが心痛んだ原点はやはり幼心の傷だったかもしれませんね。幼き心を大事にすることに皆がもっと慎重で真剣になりたいものです。でも、私は、まだお母様の味方をして二条さんには抗いましょう。

  6. ととり Says:

    そういうムッとする呼び方、断固として許しちゃいけませんよ。呼ばれても三回に一回は無視するとか。

    たぶん、二条さんの本読んでいる姿や丁寧な言葉遣い、品の良さを、自分には持っていないから、皮肉をこめてからかっているのでしょうね。人間て、残酷なものです。

  7. 二条淳也 Says:

    夏乃さん

    ひきこもりといっても、百人いれば百通りの性格があります。だからこそ、その対処が難しいのでしょうね。

    ブログを書くって、ホント、骨が折れますよね。ストレスも溜まるし(笑)。

    ひきこもりが自分らしく生きれる道として、自宅でできる仕事が開拓できればいいなあと思っています。

  8. 二条淳也 Says:

    ととりさん

    あだ名って、その人に対する価値観も含まれているので、軽々しいあだ名には、それなりの価値観も含まれているのだと思います。

    三回に一回は無視というアドバイスには、笑ってしまいました。

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