楽しまなくちゃ!
高校一年の時、学校で文化祭があった。クラスのみんなが乗り気で、ワイワイ相談し合っていた。
だが、私はどうしてもそんな気になれなかった。
文化祭のどこが面白いのか、まったく分からなかったからである。正直、子供じみたお祭りごっことしか思えなかった。
(16歳にもなって、何が面白いんだか)
そんなふうに思えて、とてもじゃないが出店の計画なんかに付き合えなかった。
だが、小学校から高校にかけては、友達の輪から外れることは致命的なことになる。私は無理をしてでも、この「楽しそうな輪」に加わることにした。
だが、「楽しまなくちゃ! 楽しまなくちゃ!」と思えば思うほど、内面はしらけていく。「駄菓子屋やろうぜ!」とか「フランクフルトもいいな!」とか言いながら、心の中では「何が面白いんだか」と冷め切っていた。
楽しまなくちゃと思っている時点で、すでに私は文化祭に馴染んでいなかった。そして、それは周囲の友人たちにも、しっかり伝わっていた。
数人の友達と駄菓子屋をやることになったのだが、仕入れに行く時、私も一緒に行こうとしたら、ある友人からこう言われた。
「二条、無理しなくていいんだぜ。お前、本当はやりたくないんだろ」
楽しくない、という感情は、きちんと周囲に伝わっているものである。私は自分なりに、「楽しそうな表情」をしていると思っていた。だが、そんな芝居は見破られていた。私は友人たちを不愉快にさせてはいけないと思い、芝居をしたつもりだったのだが、友人たちは私が怖れていた「不愉快」を感じ取っていた。
私が仕入れに同行すると、きっと友人たちもつまらなかったと思う。それを察した私は、仕入れには行かないことにした。
つらかったのは、家で父が、
「文化祭、頑張れよ」
と言ってくれた時だ。
(俺がいると、みんながつまらないみたいなんだ)
とはとても言えず、「ああ、うん」などと誤魔化したが、学校の行事に馴染めないことが親に悪いような気がして、ひどく憂鬱だった。
みんなが楽しんでいることが、楽しめない。
周囲と違った感覚を持っているということは、ひどく厄介なことだと思う。
11月 18th, 2012 at 4:39 AM
そこまでハッキリ言われたとしたら、相当の無理した顔かオーラだったのでしょう。
いいえ、人間は不遜なもので、自分以外の人間も自分が思っている以上に敏感であったりするのを見縊っているところがあると私は考えるのです。つまり、実際は、微かでも伝わったのだった、ということかもしれません。
その上で、二条さんの気持ちはよく解る。
そして、だったら二条さんは(当時も今も)どんなことに心底心酔できて喜べるのか!? と問われたら、おそらくはたぶん、何をもしたくない、一人で居たい(かった)、ということだったのではないかと察するのですが違うでしょうか、どうでしょう。
この気持ちは、自分で自分が嫌いな場合と、人に(家族を含む)不愉快な目に遭って来た心のトラウマの二種類のわだかまりがそうさせるのではないかと私は考えているのですがどうでしょう。二条さんの場合も「させられる疎ましさ」で奢って内心ダルかったのではなく、何に付けても他者と一緒に楽しむときに、自意識過剰で自分を必要以上に思い、自分を開放できない心で閉じた内面を持っていて、そこから無意味ということを考えるようになり、そのことが何にどう益するのか、どうして一緒に遂げなければいけないのかと自分から距離をもって・他者に踏み込まれたくない=一緒にしたくない=自分がどう見られるのか・言われるのか・思われるのかが気になる、という心の隠された警戒心ゆえの疑問だったのではないかと思うのですがどうでしょうか。
まぁ、当時、そうも深く考えていなかったかもしれません。
しかし、二条さんの過去の自己回想の大方は、自意識過剰、いいえ、傷ついた心を自分しか保護できなかった辛さのゆえの自己防衛の繰り返しに満ちていると感じます。
二条さんはほんとうに深い人です。二条さんのような人は真に愛されて然るべき思慮の人です。しかし、それだけほども公然と怒られてきたのをどうにも解せないのです。そこが二条さんの愛嬌かもしれないと考えてみるのですが、どうして、何度も何度も怒られる目に遭うのか、実際の二条さんはぶっきらぼうにいつでも不機嫌顔なのでしょうか。いいえ、気に入られていたお食事の店でのように、きっと違うと信じています。そして、二条さんは二条さんの書くほど激しい叱責で言われたのでは、実はないのではないか、とも思うのですが、どうでしょう。感受性の鋭さゆえの不幸かもしれません。(と書いてみる)
二条さんは自分を責め過ぎている。しかし、自分のプライドを、諦めるという図式でいつも逃げてきた道のようにも感じます。でも二条さんが誠実で慎み深いからこそ声を出せなかった悔しさを私もいつも同じ無念で悔しく読んでいる。主張して相手を理解させる苦労をもつべきか否か、人間は本当に浅ましいので難しいものです。二条さんの物語の中の自尊心と相手の非のどちらに軍配が上がるものか、もうちょっとだけ考えたいと思います。
11月 18th, 2012 at 8:11 AM
精神的に余裕のある人種層だと、
価値観の違いを受け入れてくれて、「お前は、何時も白けてるよな」とか言いながら、必要な時は、憐れむわけでもなく、自然にグループに入れてくれたりします。
イジメも、幼稚なことだから、仕掛けてくることはありません。
そう言う人種層に巡り合えてれば、良かったですね。。私は、そう言う人種層の近くにいた時もあったのに、しっかりと関係を結べなかったのは、今、思い出すと残念です。
後、今回のエピソードですが、私も二条さんと同じ様な価値観、所感を持ってましたね。ただ、当時は、もう少し演技が上手かったので、ハブられることはありませんでしたが。。
今回の文も、類似の経験をした人に「良く書いてくれた」と思われていると思います。
※そうか、世間は文化祭、学園祭シーズンなんですね。。
11月 20th, 2012 at 11:31 PM
三条朋也さん
確かに「一人でいたかった」というのが本当だったかもしれません。
ただ、孤独が好きなのと学校生活で孤立しているのとは、その性質が違いますから、難しいですね。
11月 20th, 2012 at 11:33 PM
kyotosometimeさん
なるほど、私のいた空間は幼稚な人が多かったかもしれません。出会う人に恵まれなかったという面はあると思います。
学園祭シーズンに孤立している生徒が何人いるかと思うと、可哀想になります。
11月 21st, 2012 at 12:17 AM
二条さんのその時は
> 16歳にもなって、何が面白いんだか
> 無理しなくていいんだぜ。お前、本当はやりたくないんだろ
孤立と孤独好きのどっちだったんですか。私は曖昧に考えて混同していた節がありますが、その上で(ちょっと言葉には難がありますが)「総体的に」考えたつもりです。本音の面白くも無い「無協調オーラ」がそのケースの孤立ではないんでしょうか。孤立というのは他者任せの・他人のせいの・他人の感情本位もあるけれど(いじめなど)、実際にはほぼ他者だけに原因が有る訳ではないと思います。そして、それは、当時の孤立者にはほぼ解らないように思います。
二条さんが面白くもないと思うのは精神年齢が高かったということなのか、心を開いていなかった、いや、踏み込まれたくないとも(もう既に)考えていたのか、それは今の二条さんしか解りません。
私が級友を思い出して思うのは、孤立者は怒っても悲観してもいなかったように思い出されるのだけど、どうでしょう。学校制度と年間行事はいつでも在る教育のしくみ。それにそぐわない人は悲劇的犠牲なのか、仕方ないのか、私にも解らない。ただ、そぐわなかった痛み(なのか)、それはそれ以後の二十年の人生で納得してあまり回顧しないのがふつうかもしれない。相手が悪いのか、近づけない(近づかない)自分が悪いのか。一人で生きることの叶う労働は稀少な気がするのです。しかし、遠い、高校時代を思い出すこと自体には非常に理解できる。
11月 22nd, 2012 at 11:03 PM
三条朋也さん
みんなが一人でいる時なら、私も一人でいたいですが、みんなが談笑している時などに、自分だけ一人だとつらいですね。