憧れている仕事。

たまに、趣味で商売をやっているような店に出くわす。店の主人もまるで商売っ気がなく、ハナからものを売ろうという気がない。「この店、どうやって利益を出しているのだろう?」と、本当に不思議になるが、実際、そんな店はけっこう存在するのだ。私の知っている店は、商品を一応陳列しているのだが、「これは売り物ではありません」という商品ばかりが並んでいる。店主は、最初から「ものを見せびらかしたい」だけだったのだ。

そんな商売はいいなあ、と思う。「商売」に向いているのかどうか、私には分からないけれど、どん欲に利益を求めるのではなく、趣味を優先させて利益は二の次という態度には、妙な憧れを感じる。

その他にも、不景気そうな個人商店にも興味がある。いつ行ってもヒマそうな店というのが、そこらじゅうにある。家族が食べていくには、月に二十万なり三十万なり稼がなければならないはずなのだが、どう見てもそんな利益を出せなそうな店がある。そんな店に、私は憧れる。

「別に儲からなくてもいいよ」

そんな態度を貫いて、いつものんびりしている人を見ると、「ああ、いいなあ」と思う。結局、私は働くことに向いてないのだと思う。九時から十八時まで忙殺されるような仕事には、絶対に就きたくないという気持ちがある。

以前、ある工場で働いていた時、ストップウォッチを持った人間が、私の作業時間を計測していたことがある。一秒のムダもないように、私の動作を念入りにチェックしているのだ。それを見た時、強い怒りを感じた。うまく言えないのだけど、「自分が人間扱いされていない」ように感じたのだ。そう思うのは私だけではないようで、この「タイムの計測」にガマンならない若者たちが、何人も辞めていった。誰だって、「一秒のムダもない仕事」になんて携わりたくないのだ。

あんな仕事で三十万円貰うよりは、商売っ気のない店で一日中のんびりしながら、一ヶ月十万円で暮らしたほうがマシだと思う。

私は「給料の高い仕事」に対する憧れがまったくない。私が憧れるのは、「給料が安くても自分らしくいられる仕事」である。「多忙」よりは「貧困」のほうがマシである。その意味では、私は路上生活者に向いているのかもしれない。路上で暮らせば、自分の時間だけは確保されるのだから。

ひきこもりから脱出した人が、どんな仕事に就いているのか、非常に興味がある。そして、ひきこもりから路上生活になった人がいるのかどうかも、興味がある。

親亡きあと、自分がどんなふうになるのか、ひきこもりたちはみんな気になっていると思うのだ。

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