親に話さない理由。
どうしても、馴染めない職場があった。ペアを組んでいる人は、ちょっとでも私にミスがあると、怒鳴りつけてくる。その人が睡眠不足の時は、まず確実に怒鳴られた。その人の髪型を見れば、その人の今日の睡眠の様子が見て取れる。髪型がきちんとしていない時は、セットする余裕がなかったということであり、睡眠が足りなかったということだ。そして、そんな日は、間違いなく怒鳴られるのだった。
休憩時間も、つらかった。他の十人ぐらいが固まっているのに、私はその輪に入れない。会話自体は低俗なものであり、参画するほどでもなかったのだが、「怒鳴られた人間」は、会話に入る資格がないような気がして、どうしてもその輪に近づけなかった。
雑談する人はいない。休憩時間は孤立。挨拶もほとんど無視。本当に、毎日がつらかった。
だが、どうしても、私はそんなことを親に話せなかった。
いじめられている子供は、いじめられていることを親には話さない。私もまた、そうだった。職場で孤立しているということが、なんだか家族内での私の評価を下げるような気がして、どうしても話せなかったのだ。職場でさんざん情けない想いをしているのだから、せめて家庭では普通の人間として扱われたかった。
「なんでも話してくれればいいのに」
親はそう言うかもしれないが、子供には子供なりのプライドがある。成人している子供であれば、なおさらである。屈辱のシーンを、家庭でも話さなければならないというだけでも強い抵抗を感じる。「今日、先輩から怒鳴られたんだ」と言う時、怒鳴られた時の屈辱をもう一度味わうかのような、情けない気持ちがする。どんな人だって、つらい経験は思い出したくない。親たちは「なにかあったら話しなさい」と簡単に言ってしまうが、言う側はとてもつらいものなのだ。
ひきこもりの子供は、なにがあったのか、ほとんど話さない。だが、無言の陰には、叱責や罵倒などのつらい経験が隠されていることがある。
ひきこもる子供たちは、「親にも話せないほどつらい経験」をしているものなのだ。