資格。

一日に三回、食事をするのだけど、その際にいつも、罪悪感を感じてしまう。ひきこもっている自分には食事をする資格がないと、どうしても思えてしまう。

ひきこもる前から、食事の際には、いつもそんな心境が兆した。学校で給食の際に、

「いただきます!」

と声を揃えて言ってから食べるのだが、なんとなく、私はその「いただきます」が言えなかった。四十人のクラスのうち、三十九人は給食を食べる権利があるのだが、自分には食べる権利がないような気がしていた。

私には、胸を張って「いただきます」と言えた思い出が、あまりない。食事をすることに資格なんて必要ないと思うのだけど、なんとなく、自分にだけは食事をする資格がないような気がしていた。

今でも覚えているのだけど、幼稚園だか小学校だかの時、自宅で母にひどく叱られたことがあった。原因は覚えていないのだけど、食卓で私一人、テーブルのわきへ追いやられ、

「あんたは食べなくていい!」

という母の叱責のもと、しばらく泣きながら立ち尽くしていたことがあった。あの時の経験が作用しているのか、まったく関係ないのか分からないが、「家族での食事」ということに、強い不快感と悲しさを感じてしまう。普通、「家族での食事」といえば、人生においての楽しいシーンなのだろうが、私にはそんなイメージがどうしてもできない。家族全員が「食べる資格」があるのだけど、自分にだけはその資格がないとたたき込まれてきたような気がする。

ひきこもっていると、あらゆる「資格」を剥奪される。食べる資格もなければ、遊ぶ資格もない。正直、生きている資格すらないと感じる。「なにもしていなくても、生きているだけでいい」という絶対的な自己肯定感を、私は持っていない。なにか役立つことやプラスになることをしていないと、ここにいてはまずいような気がしてしまう。

成人してから、私は家族と離れ、一人暮らしを始めた。その結果、私は「食べる資格」を取り戻した。食べる際に、私はなにも罪悪感を感じない。「一人の食事は寂しい」という人がいるが、私には「一人の食事は最高」だと感じる。それほどまでに、家族での食事はつらいことが多かった。

ひきこもりは、日本に数十万人いるといわれている。

食事のたびに、数十万人の人が、その「資格のなさ」に苦しんでいるのだろうか。

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