いい加減な評価。
ある職場で働いていた時のことだ。入社二日目で、ただ他人の作業を見ていただけなのに、なぜか、えらく褒められたことがある。
「二条君。あなたは若いのに、よくやってくれているよ」
そんな言葉を、上司はしきりに言ってくれた。もう一度言うが、入社二日目で、ただ見ているだけだったのだ。なぜ、そんな人間が「よくやっている」と褒められるのか。
言うまでもないが、上司は「私の働きぶりがいい」と褒めてくれた訳ではない。私は何一つ生産的なことをしていないのだ。そうではなく、上司はただ単に、私のことを気に入ったのだ。ただ、それだけなのだ。
これは、人間に対する評価がどれほどいい加減で不公正なものかを、とてもよく表している。職場で本当に「よくやっている人」とは、会社に利益をもたらしている人のことである。十年も二十年も休まずに、必死に働いている人のことである。ぼんやり他の人の作業を見ている人は、「よくやっている」とは言わない。
人間は、その人の「働きぶり」ではなく、「好き嫌い」で評価してしまう。その人が1の貢献しかしていなくても、その人のことが気に入ったなら、その人には良い評価が与えられる。逆に、10の貢献をしていても、その人のことが気に入らなかったなら、その人は悪い評価を与えられる。能力に対する公正な評価ではなく、好き嫌いで人物評が決められる。それはとても恣意的で不公正なことだけど、社会とはそんなものだ。
今回の例は、不公正さが私に有利に働いた例だが、その逆なんていくらでも経験してきた。一生懸命働いたのに徹底的にけなされ、そのわきで適当にさぼっている人がチヤホヤされている。そんな境遇を、今まで腐るほど味わってきた。人間の評価に「公正」など、ほとんどない。まず間違いなく、「好き嫌い」で評価が決まる。
ということは、「人から好かれないタイプ」だったら、その人は確実に苦しい人生を歩むことになる。どんなに一生懸命働いても、どんなに誠実に職務をこなしても、「人に好かれないタイプ」である限り、低い評価が与えられる。
「どこかに公正な職場がある筈だ」と探し続けて、ついには、ひきこもりになった。
「自室こそが、もっとも公正な場所だ」と、私の本能が察知したのかもしれない。
不公正な評価を下す者が一人もいないのだから。