「死ね」という言葉。
何年か前になるけれど、歩いていたら歩道に車を停めている人がいて、そのことで口論になったことがあった。車の持ち主は子供を連れた母親だったのだが、歩道に車を停めた非は認めず、最後には私にこう言った。
「お前なんか死ね!」
中年でひきこもっている私も普通ではないが、子供を連れた母親が通行人に「死ね!」という神経も、明らかにまともではない。デジタルの普及は、間違いなく人間の心理を荒廃させている。
私が子供の頃も「死にそう」とか軽く言ったりはしていたが、今ほど「死」がおおっぴらではなかった。インターネットを見ていれば分かるが、人は簡単に相手に「死ね!」と言ってしまうようになっている。顔も声も分からない他人に「死ね」という言葉をかけることは、正常ではない。
私が子供の頃は、相手に対する侮蔑語は「バカ」が主流だった。簡単に相手に「バカ」と言ってしまうことが、問題になったことすらあった。「バカ」は、今ではダメージの少ない言葉になったけど、以前はかなりの破壊力を持った言葉であり、言われた側はけっこう傷ついたものだった。「そんな言葉を言うもんじゃありません」とか「バカと言ったほうがバカだ」と諭す人もいて、「バカ」はある程度のタブーとされていた。
だが、デジタルの普及は、侮蔑語をどんどんエスカレートさせていった。人格を否定する言葉を、人は簡単に他人に言うようになった。だが、「死ね」という言葉が社会に広く普及するというのは、どう考えてもおかしい。自分の愛する人が「死ね」と言われたら、あなたはどう思うだろうか。自分の親が「死ね」と言われたら、あなたはどう思うだろうか。そのへんの想像力のない人が遣うのだろうが、それにしたって、普通の精神状態とは思えない。
私は、自分が繊細すぎるとは思っていない。それどころか、極めて正常な精神状態を保ち、正常な思考回路でものごとを判断していると思っている。仕事をしていないことはまぎれもなくおかしいことだけど、他人に「死ね」と言ってしまうような精神は持っていない。
今でも、あのシーンを思い出す。母親が他人(私)に「死ね!」と言っているのを見て、子供はどう思ったのだろうか。あの子もまた、他人に「死ね!」と簡単に言う大人になっていくのだろうか。
何かがおかしい。