変わり者は排除される。

幼い頃から、感覚が他者と違っていた。九十九人が赤を選んでも、私一人は青を選んだ。すべての男子が優勝を望んでいるのに、私は準優勝を望んだりした。みんなが野球に夢中になっているあいだ、私はアーチェリーに憧れ、みんなが華やかな女子を好んでいる時に、私は地味で目立たない女子を好んだ。

「人それぞれでいいんじゃないか?」

多くの大人はそう言ってくれるが、最近の人間社会の中では、そうも言っていられない。感覚が他者と違うということは、深刻ないじめに繋がるからである。

他者と違った感覚を持っているということは、隠しようがない。みんなが笑っている時に笑わず、みんなが怒っている時に笑っているのだ。間違いなく、他者からの反感を買う。

高校の時、ある教師が私のことを、

「おまえは宇宙人みたいだ」

と評した。バイト先の板前さんは、私に向かって、

「お前は緑色の血が流れている」

と言った。どちらも「お前は変わり者で、何を考えているのか分からない」という意味で言ったのだろう。

最近の社会では、「他者と違っている」というだけでいじめに遭う。

どうも、数十年前はそうでもなかったらしい。変わり者は数十年前もいたが、

「あいつは変わっているなあ」

という感想だけで済んだ。だが、今は違う。

「あいつは変わっている。それが気に入らない。いじめてやれ」

となる。他者と違った感覚を持っていること、他者を違った嗜好を持っていることが、極めて深刻な排除を生んでしまう。

「周囲に自分を合わせたくない。周囲に迎合なんてしたくない」

という私の頑固さも、周囲の人は見抜いているのかもしれない。自分のスタイルを捨てて周囲に合わせれば、いくらか排除は緩和されるのかもしれないけど、そのようなことをしたくないという、私のプライドがある。

私の知人に、必死に周囲に自分を合わせようとしている人がいる。誰かがジュースを買いに行ったら自分も買いに行き、誰かがトイレに行ったら自分も行く。そんな姿が、私にはとても見苦しいものに映る。あそこまでして周囲に溶け込みたくないという、強い反感を抱いてしまう。

他者と違った感覚を持っているといじめられるなら、変わり者たちは永久にいじめられ続けることになる。

変わっているということは、それほどまでに悪であろうか。

12 Responses to “変わり者は排除される。”

  1. バラ Says:

    こんにちは。

    二条さんのブログを読めば読む程、私と境遇が同じです。

    私も人から「雲上人」「変わってる」「人間じゃない」と言われ続けています。

    でも、それを聞いてむしろ嬉しいし、人と違う部分はなくさずにいたいです。

    日本人は没個性を推進している国なので、出る杭は打たれてしまうんですよね。

    最近、個性を大切にすると言った風潮がありますが間違った捉え方をしているし、じき消えるでしょう。

    あくまでも協調性、同調性、団結力を重んじる国ですから。

    だから、世界で活躍できる人間が少ないんだと思います。

    生まれる国を間違えたとつくづく感じます。

    二条さんは日本を出たいと考えた事はありますか…??

    違う国に行けば、自分を受け入れてくれるのでは…?この苦しみから解放されるかもしれないと。

    私は密かに期待しているのですが、浅はかでしょうか??

  2. 二条淳也 Says:

    バラさん

    境遇が同じ人に出会えると、とても嬉しく感じます。バラさんは「変わっている」と言われると嬉しいですか。精神的にタフなんですね。私はそんな言葉にも否定的なニュアンスを感じ取り、へこんでしまいます。

    ホント、日本人は同調性を極端に求めますね。少しでも個性的な部分があると、すぐに排除の対象になってしまう。これでは心の病が増えていくのも当然ですね。

    日本を出たいと思ったこともありますが、日本を出ればひきこもりもできなくなる訳で、そのへんが難しいですね。

    以前、大阪に行った時、変わった人が沢山いて、大阪がとても住みやすいような街に見えたことがあります。

    変わった人が多い地域というのは、私にとってちょっとした憧れです。

    バラさんの提案は、浅はかでもなんでもないですよ。

  3. kobu3001 Says:

    こんにちは!変わり者な自分を誇りに思っているKobu3001と申します。
    「世間は広いようで狭い」とは、まさにこのことですね。自分と同じ境遇に置かれている人が存在するなんて…。

    私は物心ついた頃から、変わった物事に惹かれる傾向にありました。
    しかし、母によると私は物心がつく前から変わっている傾向にあったようです。というのは子供って大抵、1歳近くになると歩き始めますよね?その際、立つことを覚えてから歩くことを覚えるわけでありますが、私の場合、これが逆(歩くことを覚えてから立つことを覚えた)だったそうです。やはり私は変わり者として生きることが運命なのかもしれません。

    幼少期(幼稚園時代)の私は奇行がひどく、特に幼稚園では集団行動が嫌いで、クラス活動など皆と一緒にやる時間は、教室にいないで一人勝手に園庭などで遊んでいるといった集団行動の逸脱は日常茶飯事、集合写真を撮るときは一人だけ皆と違うポーズを取ったり、ひどい場合には幼稚園を抜け出したこともあります。あの頃は集団行動たるものに鬱陶しさを感じていたのも事実で、「何で皆と一緒にやらなくちゃいけないんだ!」と集団行動に対して反感を抱いていた記憶があります。
    また、小学校時代にはイタリアの自動車メーカー「ランボルギーニ」が製造した自動車に凝っていた時期がありました。ランボルギーニ製の車は普通の車と違って、ドアが上に開くというのが魅力的だったのです。
    このように変わった物事が好きということで、「自身も一風変わったキャラでありたい!」という思いを貫いているわけですが、きっと幼少期の私は、その思いが強すぎたのでしょうね。幼少期に取った数々の奇行を今になって思うと甚だ情けない且つ恥ずかしいですが、そんな自分を別の視点で見ると、「よくやった!」と自画自賛したいという見解もあります。

    私もバラさんと同様、「変わっている」などと言われ続けてきました。そんな性質が災いしてイジメやからかいの対象にされたこともありましたが、それでもそんな自分を嫌だと思ったことは今まで一度もありません!
    ましてや日本人は個性を嫌う傾向にあるということを知り、「せめて自分だけでも個性派な人間でありたい!」という思いは強まる一方です。

    例えば「しょこたん」こと中川翔子。しょこたんは中学時代、オタクや風変わりな性質が災いしてイジメに遭っていたとのことですが、しょこたんがイジメられていたことが納得いきません!
    もしこれが他人の嫌がることを故意にするなど、嫌われるような振る舞いをしていれば、嫌われてイジメられるのもやむを得ない(だからといってイジメという行為は許されるわけじゃありませんが…)と思いますが、しょこたんの場合は嫌われるような振る舞いをしていたわけじゃありませんよね?
    やっぱり「変わっている」というだけのことでイジメの対象にするなんて、おかしいと思います!

    他人に迷惑をかけたり、危害を加えたりさえしなければ、変わったことなんて大いにやって良いと思います!しかし「変わったことをしたことで周囲から偏見やイジメの対象にされることが怖いから、そんなことできない…。」と自分を抑え、仕方なく周りに合わせる。I feel sorry!!
    私もそういう人はかわいそうだと思います。どんなにイジメられても自分のフィールドを守り続けたしょこたんは偉いと思うし、そんなしょこたんのことを私は尊敬します!

    私もバラさんと同様、「生まれる国を間違えたかな…」と思い、個性を尊重する傾向にあるヨーロッパが羨ましく思うことがつくづくあります。
    変わった人が多い地域に憧れを抱く気持ちも分からなくないですが、個性が尊重されないという難しい環境だからこそ、個性を貫き通す甲斐があると思うのですが、いかがでしょうか?

    私は今回、二条さんとバラさんに出会えたことが、とても光栄に思います!
    お互い頑張っていきましょう!

  4. 二条淳也 Says:

    kobu3001さん

    はじめまして、こんにちは。

    私も集合写真で一人だけ違うポーズをとったことがあります(笑)。どこにでもそんな子がいるんですね。

    確かに、周囲に迷惑をかけない限り、その「変わり者ぶり」は責められるべきではありませんよね。

    中川翔子さんのことはよく存じませんが、有名になった人の影には社会の隅っこで苦しんでいる多数の人がいる訳で、そんな名もない一人一人にものびのび生きる権利を与えて欲しいですよね。

    お互い、うまくストレス発散していきたいですね。

  5. kobu3001 Says:

    二条さん、こんにちは。
    このたびは私のコメントに返信いただきまして、誠にありがとうございます。
    今回、二条さんに2点ほど質問したいことがありまして、コメントを差し上げました。

    1点目
    今と比べものにならないほど奇行がひどかった幼少期の私は、親と一緒に外出すると、よその人から「変わった子だな。」などと私の変わりぶりに呆れられることもザラでした。
    このように言われて決して良い気分はしないという親の気持ちも分からなくないのですが、変わっているというのは悪いことじゃないんだし、「悪い子だな!」と言われるよりは大いにマシだと思いませんか?

    2点目
    「変わり者な自分を誇りに思っている」というのは事実であるものの、幼少期の私は周囲から「この子、まともなの?」と呆気にとられるぐらい奇行がひどいものでした。その奇行のひどさゆえに幼稚園から発達障害の疑いを指摘され、精密検査を受けたこともあります。精密検査の結果、何ともありませんでした。(あんな調子で、よくぞ「発達障害ではありません!」と診断されたものです…。)
    それはともかくとして、私は幼少期の自分がすごく嫌いです。いくら何でもやり過ぎました。幼少期の自分について「奇行がひどかった幼少期の自分を別の視点で見ると『よくやった!』と自画自賛したいです。」と思っている分には何ら変わりないのですが、「なんてバカなことをしたんだろう…。」と自己嫌悪に陥る気持ちのほうが強いです。
    奇行がひどい、集団行動に馴染まない幼稚園時代の私を見て、私の両親はゾッとしたことでしょう。私は中学時代、学校(特にクラス)での人間関係が上手くいかないという事態に苦しんでいましたが、これは幼稚園時代に集団行動に従わなかったこと・友人関係を蔑ろにしてきたことに対する報いなのだろうと認識しています。それだけ私は過去(特に幼少期)の自分に罪悪感を持っているのです。
    その罪悪感というのは両親をゾッとさせるなど他人に迷惑をかけてしまったことや、自分の過ちによって自分が苦しむ結果を招いてしまったことをひっくるめてのものなので、決して生半可なものではありません。
    このように過去(特に幼少期)の自分に罪悪感を持っている私に、母は「後になってから情けない・恥ずかしいと思うような言動は取るな!」と忠告します。本当にその通りだと思います。だから私は変わった物事が好きで、時たま奇行を取ることがあるとはいえども、幼少期のように派手な奇行は取らなくなりました。
    このように幼少期に取った奇行ですら、かなりのダメージになっているわけですから、もしこれがきかん坊のいじめっ子だったとか、非行少年で頻繁に悪さをしていたとなれば、ますます罪悪感に苛まれていたことでしょう。
    二条さんも幼少期に集合写真を撮る際、一人だけ皆と違うポーズを取ったことがあったとのことですが、それも含めて過去に取った奇行を今になって思うと情けない・恥ずかしいと思うことはありませんか?

  6. 二条淳也 Says:

    kobu3001さん

    たしかに「悪い子」と言われるよりは、「変わった子」と言われるほうがマシですね。ただ、現代の言い回しでは「悪い」と言うとダイレクトなので、「変わった」という表現を用いて言葉を柔らかくする風潮があります。私の担任や親もよく「変わった奴だ」と言っていました。

    幼い頃の風変わりな行動は、今でも恥じることがあります。ただ、私がひどく気にしているだけで、親を含めた他人は結構気にしていないかもしれない。なんとなくそう思います。

    私の幼少期、私以外にも色んな変わった子がいましたが、彼らの奇行など、普段、私は気にも留めません。それと同じで、私の行動も、もはや誰も気にしていない。

    そう思うことにしています。

    そう考えたほうが気が楽ですから……。

  7. kobu3001 Says:

    ご無沙汰しております。

    私の嫌いな数字は「1」です。「数字の1と2、どっちが好きか?」と言ったら断然「2」なので、優勝よりも準優勝を望んだという二条さんの気持ちが何気に分かるような気がします(笑)

    閑話休題。
    二条さんは「自分が取った奇行は、もはや誰も気にしていない。そう考えたほうが気が楽ですから。」と述べていますが、私の場合、奇行のひどさゆえに親や先生など、たくさんの人に手を焼かせてしまったので、「自分が取った奇行は、もはや誰も気にしていない。」なんて考えられません。
    よって二条さんのポジティブシンキングには実に感銘させられましたし、私以上に「変わり者」な自分を誇りに思っていると窺えました。私も同じ変わり者として、そんな二条さんを尊敬します。

    さて、変わり者ってイジメ・からかい・仲間はずれのターゲットにされやすいものです。

    そこで、二条さんに質問です。
    やっぱり二条さんも私と同様、変わり者であることが原因でイジメ・からかい・仲間はずれのターゲットにされたのでしょうか?

    たとえ変わり者であることが原因でイジメ・からかい・仲間はずれのターゲットにされたとしても、「変わり者」を辞めようとは思いませんでしたか?

  8. 二条淳也 Says:

    kobu3001さん

    こんにちは。

    奇遇ですね。私も「2」が大好きです(笑)。

    私のことをポジティブシンキングだなんて、珍しいお方ですね(笑)。私も奇行でさんざん恥をかいてきましたが、それを考えてしまうと、ひどい自己嫌悪に陥るので、考えないようにしているのです。

    私も「変わり者」なので、さんざんいじめの標的になってきましたが、わざとやっているわけではないので、辞めることができないのです。自分らしい行動が「変わり者の行動」なので、どうしようもない感じです。

    ただ、学校時代とは違い、職場では辞める自由があります。学校を変わることは難しいですが、バイト先を辞めることは簡単です。

    なので、いじめに耐えられなくなってきたら辞めることを繰り返し、ひきこもりになったわけです。

  9. kobu3001 Says:

    二条さん、こんばんは。
    まず私の好きな数字についてですが、「数字の1と2、どちらが好きか?」と言われたら「2」であるというだけのことであり、実際に好きな数字は「8」です。

    閑話休題。
    私は今回、二条さんに2点ほど質問したいことがありまして、コメントを差し上げました。

    1点目
    二条さんが変わり者であるのは、わざとじゃないので辞めることができず、自分らしい行動ゆえのものだという点も私と同じですね。

    でも、二条さんはそれで良いんですよ!
    確かに変わり者であるがゆえにイジメのターゲットにされるなど、今まで辛い思いを多々してきたかもしれませんが、そんな二条さんにだって二条さんの良さというものがあります。だから無理して他の人と同じ(普通)になろうとしなくて良いと思いますよ!

    よく「日本人は集団意識が強い」と言いますが、これは裏を返せば「人と違うと周囲から浮いてイジメのターゲットにされるのが怖いから、そうならないために周囲に合わせている」だけのことのように思います。二条さんは、そんな「虎の威を借る狐」のような考え方が本当に「強い」と思えますか?

    ******

    2点目
    思えば私が小学4年生の時だったかな。ある授業で国際理解の一環として、クラス全員(約35人)でイギリスの小学4年生に手紙を書いたのですが、このうちに私のクラスの人宛てに返事が来たのは約5人。その中に私が含まれており、おまけに先生から「イギリスの小学4年生のクラスで、ぜひkobu3001さんに手紙を書きたいという子が、とても多かったそうです。」と言われた記憶があります。
    今、思えば小学4年生当時のクラスメートなんて馬が合わない子が殆どだった反面、イギリスの小学4年生からは興味・関心を持たれるなんて、さすが個性が尊重される環境に住んでいるだけのことはあると確信しました。

    このようにイギリスがあるヨーロッパ・欧米のように、個性(人と違う物事)を強めることで皆から認められる地域な、私や二条さんのような「変わり者」には憧憬の的に過ぎませんね!

    そんなヨーロッパ・欧米とは裏腹に、日本という国は場の空気を読まなきゃいけなかったり、迎合してでも周囲に合わせなきゃいけないことが多く、何より他人と違えばイジメのターゲットにされるのが実情です。そんな実情が「人と違う・変わっていることは悪いことだ」と錯覚・勘違いさせているのでしょうね。

    二条さんが引きこもりに陥る気持ちも全く分からないわけではありませんが、二条さんは故意に奇行を取っているわけじゃないとはいえ、たとえ周囲から偏見・イジメを受けたとしても自分らしさを出せるなんてカッコイイじゃないですか!

    日本人が些細なことでも周囲に合わせようとする傾向にあるのは、一人だけ皆と違うことで周囲から浮いてイジメのターゲットにされるのが怖いゆえのものに過ぎません。だから自分らしく振る舞うことができるということに自信を持って良いと思うのです。

    それに日本という変わり者が理解されない難しい環境だからこそ、変わり者を貫き通し甲斐があると思いませんか?

  10. 二条淳也 Says:

    kobu3001さん

    こんにちは。

    そうですね。日本人は周囲の人とずれるのを、ものすごく怖れますね。「浮く」という言葉は、疎外される恐怖を適確に言い表していると思います。特に「ワル」と呼ばれる人は必ず徒党を組む。そうしなければ生きていけないのでしょう。気の毒だと思います。

    イギリスの子供からの手紙には、興味を持ちました。個性の尊重の度合いが違うのでしょうね。企業は体育会系や応援団などを喜んで入社させると聞きましたが、これも「団体行動に適応できる」という観点からでしょう。

    ただ、孤立している人間が強くて逞しい訳でもなく、ただ単に仲間に溶け込めないというだけというケースもあるので、難しいですね。

    「属するグループがないと生きていけない」というのは哀れですが、集団に溶け込めないのもまずいと思うのです。

  11. kobu3001 Says:

    どうも、ご無沙汰しております。

    前回、二条さんは「集団に溶け込めないのもまずいと思う」とおっしゃっていますが、やはり学校・会社・団体スポーツで決められたルールを守ることに関しては当然、皆と同じにしなきゃいけないと思います。
    私は幼少の頃、そういった組織・集団においての最低限のルールに従うことすら苦痛で、幼稚園では集団行動に従わず、一人で好き勝手に遊んでいました。(幼児となれば分別もつかないし、きっと「自分らしくありたい」という思いが強すぎたのでしょうね。)これは親に怒られ、小学校に入ってからは最低限のルールに従うようになりました。

    ただ、やはり嗜好・価値観など「人それぞれで良いんじゃないか」というところで、迎合して周囲に同調するというのは見苦しいし癪に思います。
    私は「皆と違うことを嫌う傾向が強い日本人だって所詮は一人ひとり違う人間なのだから皆、違って当たり前。」と認識しているので本当、「人それぞれで良いんじゃないか」というところでは、たとえ自分一人だけ皆と違っても、自分の考えを貫き通すことにしています。皆と違うからといって叩かれても構いません。その理由としては自分らしく振る舞うことで、何でもすぐ迎合して周囲に同調することに対するストレスを軽減するためです。

    それに私は「自分を持つ・持てること」って、すごく大事だと思うのです。日本人は仲間意識が強くて何かとすぐ群れたがりますが、その仲間だっていつ自分を裏切るか分かりません。このようにもし仲間に裏切られて一人ぼっちになってしまったときのことを考えると、群れたがる人よりも、「自分」という土台を持てる・持っている人のほうが強いと思いませんか?

    仲間に裏切られることはあっても、自分自身に裏切られるということはないのですから。

  12. 二条淳也 Says:

    kobu3001さん

    こんにちは。

    たしかに「人それぞれ」でいいのだと思います。ただ、社会全体がそれを許容していなくて、「自分は自分」と振る舞っていると、集団に入れなかったり変人扱いされたりと、かなり不利益もあります。少なくとも私個人に関しては、かなり不利益をこうむりました。

    そうなると、やはり自宅就労や一人だけの職場がいいなあと思います。

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