私が出会った職場④

ある工場で派遣社員として働いていた頃、一日休もうとして、

「休みを下さい」

と言ったところ、

「どうして休むんですか? 理由を言って下さい」

と言われた。「一身上の都合」で普通は休めると思うだろうが、実際は、今回のように「一身上の都合が通用しない会社」というのが結構ある。その場合、何をするのか、どこへ行くのか、担当者に言わなければならない。

それが、私にとっては耐え難い屈辱のように感じられた。

私にはどうしても我慢できないことが二つある。「干渉」と「拘束」である。休みの日に何をするのかいちいち尋ねてくることが、私にとっては我慢ならない干渉のように感じられた。休みを取った日に何をするか、言えば担当者は納得するかもしれないが、私にはそれができなかった。

私は、私生活を詮索されることが大嫌いである。休みの日の予定を言うことが、私には耐えられなかった。会社側に私生活を把握されることが、私にとっては耐え難い屈辱のように感じられた。休みの日の予定を告げることによって、会社に私生活を管理され、支配されるような気がした。それは絶対にイヤだった。

結局、私は休日の予定を言わなかった。それによって担当者は怒り出し、私もそれに感情的に応戦し、ついには最悪のかたちで決裂した。解雇である。

休日の予定を言わないことによって、私は職を失った訳だけど、今でもそれを言わなかったことに後悔はない。休日の予定を訊かれるということは、私にとって極めて不愉快なことだからである。

職場の同僚に、

「明日は何をするの? どこへ行くの?」

と訊かれた時、強い不快感を感じる。実家の父に、

「今日は何を食べたんだ? 明日は何を食べるんだ?」

と訊かれた時、言いようのない怒りを感じる。

これは、私が社会生活に適していないことを示している。このような詮索はどこにでもある訳であり、このようなことが耐えられなかったら、どこの職場も勤まらない。「干渉」と「拘束」に耐えられないということは、つまりは「働くことに耐えられない」のだ。

私生活を抵抗なく晒せる人を見ると、若干の驚きと共に、羨ましさを感じる。壁のない人ほど、楽に生きられると思うから。

(ひきコミ94号掲載文)

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