ねえ! 入籍しようよ!①
恋人の律子と逢った。バスの中で、年金の話になった。
「あたしは二十歳の頃から、きちんと納入している。だから、六十歳になったら、そんなに不自由しない生活が送れると思うの」
それを聞いて、年金未納の私は、言った。
「じゃあ、老後はよろしくお願いします」
この発言が良くなかった。律子に対する結婚の意思表示のようなニュアンスになってしまったのだ。律子はとても嬉しそうな顔をして、言った。
「ねえ! 入籍しようよ! 淳也君が別々に暮らしたいなら、別々でいい。住まいは今のままでいい。そうしたら、両親も安心するし、外泊も気兼ねなくできるじゃない!」
そんなことを言われて、本当にひるんだ。私には結婚する意思はなかったからだ。
「俺の仕事のことはどうするの? 律子の両親から『あなたのお仕事は?』と訊かれたら、どう答えるの? 『ひきこもりです』って答えていいの?」
そう言うと、
「仕事のことはあたしの親には内緒でいいよ!」
と律子は言った。絶対絶命である。
住まいは別々でいい、ひきこもっていることは内緒でいい、というのだから、律子にとっては最大の譲歩をしたのだろう。ここまで譲歩されて、それでも結婚を渋る自分が、甚だ情けなかった。
女性から熱心に結婚を申し込まれるひきこもりは、極めて珍しい。男性ひきこもりとしては、とても恵まれたほうだろう。中には、「主夫業に専念すれば、生きていけるじゃないか」と見当違いのアドバイスをする人もいる。
だが、ひきこもり男が結婚しても、そう長くは続かないことを、私は知っている。
まず、ひきこもっていることを律子の両親に黙っていても、いずれはバレる。確実にバレる。ひきこもりが発覚したら、私は彼女の両親に、なんと詫びれば良いのだろう。
また、結婚すれば、次のステージとして、律子は間違いなく子供を欲しがる。私は子供が好きではないし、欲しくもない。そうなれば、深刻な夫婦げんかに発展することは間違いなく、結局は離婚になる。離婚になるのを知っていて結婚するのも、おかしいと思うのだ。
男性にとって、女性から結婚をせがまれるというのは、愉快なことかもしれない。だが、「入籍しようよ!」と言われた瞬間、情けないことに、私はかすかに手が震えていた。正直に言って、その場から逃げ出したいぐらいだった。何もかも放り投げて、逃げ出したい気持ちだった。
「入籍しようよ!」と言った時、もしかしたら、律子は勇気を振り絞っていたのかもしれない。
それを考えると、その想いに応えてあげられなかった不甲斐なさに、我ながら情けなくなる。