悲観的な結末。

なにか出来事があると、すべて悪いほうに解釈してしまう。ある人の行動や言葉を、私に対する悪意のように感じ取ってしまう。

また、楽観的な予測というものができない。自分に待ち受けていることは、つらいことや苦しいことばかりであり、楽しいことなど待っている筈もないという、ネガティブな諦観ばかりを感じ取ってしまう。

よくまあ、ここまで悲観的な人間が出来上がったものだと、我ながら呆れてしまうぐらい、悲観的である。恐らく多くの人が、その悲観的な考え方に不快感を抱くと思う。悲観的な人と一緒にいても楽しくないし、一緒にいる側も暗くなってくるので、そんな人とは誰だって距離を置きたい。悲観的な私は、それと同時に、他者を不快にさせる存在でもある。

今までの人生において、いいことがほとんどなかったので、楽しい結末を予測する能力というものがない。親からも同級生からも否定的な扱いをされ続けたため、悲しい先読みばかりをしてしまう。多くの愛情を受けてきた人は楽しい結末を想像できる能力があるが、私のように愛情をほとんど受けてこなかった者は、否定的な結末しか想像できないのだ。

勇気を振り絞ってバイトの面接を受けても、

「おそらく数ヶ月後には、同僚から無視されるかいじめに遭うかして、突然辞めることになるだろう」

といった予測を立ててしまう。そして、思い描いた予測の通りの結末を辿る。

他者との友好を継続した経験がほとんどないために、あらゆる人間関係が怖くなる。他者との交流も、いずれは決裂に終わるのであり、結局は不愉快な経験になるという想定を持ってしまう。親子関係でさえ、その愛情の結びつきに確信を持てない。母親から無条件に愛されたという経験がないため、およそすべての愛情に疑念を感じてしまう。

生まれてから虐待され続け、最後には死んでしまう子供。ずっといじめられ続け、自殺していまう中学生。「いいことが全くなかった人生」というのは、あり得る。人生はプラスとマイナスが出揃うと信じ切っている人もいるようだが、少なくとも、私の人生ではそのようなことはない。マイナスなことばかりが自分の身に降りかかっている。

この文章を読んだだけでも、ほとんどの人が、そのネガティブさに不快感をおぼえるだろう。

もしかしたら私は、他者を不愉快にさせるために生まれたのかもしれない。

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