一人暮らしのひきこもり。
ひきこもりには珍しく、私は一人暮らしをしている。
一人暮らしをしていて最も気楽なのは、「親の老いを見ないで済む」という点である。これは快適である。
多くのひきこもりは、親と同居しながらひきこもり生活をしている。さぞかし大変だろうなあと思う。親が一緒だと、いつまでも寝ていられないし、小言や嫌みも受け入れなければならない。「いつになったら働くんだ」という叱責と隣り合わせだし、ひきこもり当事者の孤独さも、家族に筒抜けになる。
それよりなにより、親の老いを毎日見なければならないということが、一番の苦痛だと思う。ひきこもりにとって、親が老いていく姿を目の当たりにすることは、とてもつらいことである。親の老いは、自らの寿命に直結するし、「ここまで弱ったのは、自分のせいかもしれない」という心理的負い目があるため、正常でいられなくなる。誰にとっても親の老いを目にするのはつらいことだけど、人一倍心配と負担、迷惑をかけているひきこもりにとってはつらいのである。
親の老いを目にするというのは、ひきこもりにとって、宿命かもしれない。自由を満喫する代わりに、扶養者の老いに直面する義務を負う。365日家にいる自由を味わう代わりに、親が弱っていく姿を毎日目にしなければならない。それは確かに宿命めいたものかもしれない。
私は卑怯なことに、そんな宿命すらかわしている。ひきこもりが負うべき「義務」すら負担していない。ほとんどのひきこもりが、親の老いを目にする「義務」を負っているのに、私はそれを負っていない。「自由」だけを満喫して、あらゆる義務を免除されている。考えうる限りで、もっとも卑劣な生活形態かもしれない。
本当は一人暮らしをしたいひきこもりも大勢いるだろう。親の干渉から離れて、仕送りをもらい、気楽に生活したいと願っているひきこもりも多いだろう。それを考えると、やはり私は恵まれていると思うのだ。
私の親も老齢である。仕送りもいつストップするか分からない。私の寿命は、他の多くのひきこもりに比べて、とても短いものになると思う。
それも当然だろう。私は「義務」を負わずに「自由」だけ満喫しているのだから。