デートの時の罪悪感。

 私には、付き合っている恋人がいる。中年のひきこもりなのに、彼女がいるのだ。これはかなり例外的なものだろう。サラリーマンでも彼女がいなくて悩んでいる人が沢山いるのだ。無職で家から出ない中年男が彼女がいるなんて、許せないと思う人がいてもおかしくない。
 だが、私自身はあまり幸福ではない。誤解のないように言っておくが、彼女と一緒にいられることは幸福だと思っている。とてもステキな人だし、私のことを愛してくれている。それに、彼女がいるということで、他の人に対して優越感を感じることができる。いろいろな意味で幸福なのだが、その一方で、なんだかサイズの合わない洋服を着ているような違和感がある。
 私はひきこもりなので、ほとんど収入がない。両親の仕送りで生活している。だから、自分には恋人を所有する資格がないと思えてしまうのだ。
 彼女は食べることが好きな人なので、デート中はおいしいお店によく入る。先日も、煮魚がおいしい和食料理のお店に入った。評判通り、とてもおいしい料理だった。だが、それを食べるお金はどこから出たのか。父からではないか。父が汗を流して必死に働いたお金で、私はおいしいものを食べている。それがなんだか社会的に決して許されないことのように感じられるのだ。
 彼女とおしゃべりしながらおいしい料理を食べるのだ。誰だって幸福な時だろう。だが、そんな時でも、私の頭の中には父の顔がチラついて、デートに集中できない。
 自分はいま、千円の料理を食べている。父はどんな思いでこの金を稼いだのだろう。どれだけの汗を流し、どれだけの叱責を上司から受けたいたのだろう。そう思うと、彼女と食事なんてしている場合ではないと思ってしまうのだ。
 私に付き合っている恋人がいることを、父は知っている。何度か彼女と父を会わせたことがあるのだが、
「いい女性だな。仲良くしなさい」
 と応援してくれた。言葉通りに受け止めれば、彼女とのデートを心ゆくまで楽しむべきなのだろう。だが、私にはそれができない。 父の稼いだ金をレジで支払う時など、
(ああ、父さん悲しむだろうなあ)
 などと思ってしまう。ひきこもりから立ち直るまで、この罪悪感は消えないだろう。
 今のところ、父も彼女も――私が心から愛しているのがこの二人だ――「働け」とは言わない。私のひきこもり生活を、黙って見届けてくれている。
 心のどこかで、私は、
「はやく働け」
 と言われることを望んでいるのかもしれない。その変形した現れとして、デートの罪悪感を感じているのかもしれない。
 この「罪悪感」が「労働意欲」に結びつけばいいのだけど。

Leave a Reply