友達が一人もいない。

毎年、元旦が憂鬱だった。年賀状がほとんど来ないからだ。

私は五人家族であり、私以外の四人には、結構な数の年賀状が来ていた。特に、社交的な父に送られる年賀状の数はすさまじく、「よくポストに入ったなあ」と驚くような枚数が来ていた。

兄も妹も、それなりの枚数は来ていた。そして私には、ほとんど来なかった。私以外の四人は、そんな私に気を遣ったのだろう。

「さあさあ、年賀状はもういいじゃないか。それよりお雑煮を食べよう」

などと言って、うまいぐあいに話をそらせてくれた。だが、内心は、屈辱感でいっぱいだった。年賀状が少ないということは友達が少ないということであり、人間的魅力が乏しいことを意味している。特に少年期というのは「友達をつくるのが仕事」とすら思われており、それができない子供は、ほとんど軽蔑の対象になる。

学校を出るといよいと友達は少なくなり、今、私には友達が一人もいない。恋人の律子や、律子の友達(女性)、それに、たまに飲みに誘ってくれる女友達などがいて、携帯などには結構な数の女性のアドレスが登録されているのだが、同性の友達がいないということに、私は強い劣等感を覚えている。

「恋人がいるなら、いいじゃないか」と言う人もいるかもしれないが、恋人がいても、満たされない想いがある。異性に好かれても、同性から嫌われるということは、私になんらかの欠落部分があるからなのだ。

正直、男同士でラーメン屋に入っている人なんかを見ると、「ああ、いいなあ」と思ってしまう。そして、男同士で野球を観に行ったり、男同士で居酒屋に行ったりする人を見ると、劣等感が強く刺激される。人間は異性愛だけを獲得しても生きていけないのだ。

私はよく、「優しい」と言われる。優しいから、女性には(少しだけ)魅力的に映るのかもしれない。だが、「優しさ」は「弱さ」と似ている。男性社会では、優しい男はいじめの標的になることがある。「優しい」ということは、「攻撃性が弱い」という意味だからだ。

ある程度強くないと、同性の友達はできない。少なくとも、男性に限ってはそうだ。だが、ひきこもっていながら強さを獲得する方法などあるのだろうか。

「ひきこもりのくせに、強がるんじゃない!」と叱られるだけなのだろうから、もう強さを求める意欲すら失ってしまった。

「ひきこもりは、ひきこもりらしくしろ」という社会のプレッシャーが、我々から強さを奪っているように思えるのだが。

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