興味の対象。
食べることに興味がない。ひきこもってから始まったのか、ひきこもる前からそうだったのか、今ではもう分からないけれど、ほとんど食事に関心がない。
父はよく私に電話してくるのだが、「今日は何を食べるんだ?」などと訊かれても、答えようがない。どうでもいいものしか毎日食べていないからだ。
グルメ番組などを観ていると、さすがに美味しいものを食べたくなってくるけど、四十円のインスタントラーメンでもすすれば、その欲求も解消する。美味しいものに対する「強烈な欲望」というものがない。
正直に言って、五日間卵かけご飯が続いても不満はないし、食パンの生活が一週間経っても大して気にしない。
恐らく、これは「本能的」に私が獲得した性質なんだと思う。
以前も書いたが、私は一ヶ月十二万円で生活している。家賃や光熱費など最優先のものを支払い、律子とのデート代を確保しておくと、もうほとんど残らない。
これで、さらに「食べることに対する強い執着」があったら、間違いなく私の生活は破綻する。
ひきこもりの私は、ほとんど本能的に、いろいろな興味を排除していったのだと思う。そうしなければ。生き抜いていけないからだ。
どんどん興味の対象が減っていくということは、とても悲しいことだと思う。生きる楽しさが減っていくのだ。
だが、そんな現実も受け入れなければならないだろう。少ない収入でやっていくためには、少ない興味で充足する他はない。これだけの収入ならば、これだけの欲求で生きていくしかないと、私は理論的にではなく本能で察知したのだ。ある意味、これは人間の強さと言えるのかもしれない。実際のところ、いろいろなものに興味を示していたら、十二万円ではやっていけないのだ。
好きな時間に寝て好きな時間に起きる代わりに、生きる上での重要な興味を私はどんどん失っていった。
働かずに家にひきこもるということは、人間性の荒廃を招くのかもしれない。