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創価学会の現実

創価学会の現実を現役学会員が語ります

創価の都市伝説

創価組織の現実

こんばんわ。

とある反創価ブログに「創価学会には、選挙で公明党の票を取れば功徳があるという都市伝説がある」というような記事が書かれてあるのを見たことがありますが、「都市伝説」とはうまい表現だな、と感心したものです。

 都市伝説とはどういうものなのかとウィキペディアで調べてみると、

「『友達の友達』という、近い間柄ではなく、特定も出来ない人が体験したものとして語られる、起承転結が見事に流れる話」

「都市伝説とは、本当にあったとして語られる『実際には起きていない話』である」「実存しない可能性が高い人間が体験した虚偽についての物語」

といった定義がされています。

創価の「選挙をやれば功徳がある」というのは確かにこの定義どおりで都市伝説と言っていいですね。

それ以外にも創価には都市伝説と呼べる話がたくさんあります。

例えば、「昔は座談会などで幹部が、折伏しない者は来世はミミズやゴキブリに生まれ変わる、などとまるで見てきたようなウソを言っていた」と書いている反創価ブログの記事を見たことがありますが、確かに昔はそんな法螺話をする幹部が多かったですね。

まさに都市伝説です。

そして、財務にたくさん寄付すれば何倍にもなって返ってくるとか、財務に出し惜しみすると不幸な目に遭うとかいうのも都市伝説です。

あと、学会で信心すれば台風や地震などの自然災害の被害を免れるという話も都市伝説です。

まあ、創価の言う「功徳」や「罰」の話はほとんど都市伝説だと言ってよいでしょう。

それからついでに言えば、「学会歌には魔を打ち破る力がある」とよく幹部から聞かされましたが、これも都市伝説の1つと言ってよいでしょう。

盲信会員はこんな根拠のない都市伝説なんかを信じて選挙で必死になって公明票を頼んで回り、財務にも借金までして貢いでいるんですから、外部の人から見れば笑い話でしかないでしょう。

しかし、これまでその創価組織に呪縛されて生きてきた私などは笑いごとでは済まされません。

私が創価での体験を笑い話として語れるようになるのは、創価を脱出して、これまで失ってしまった心の平安を取り戻してから後になると思います。

ところで、これら創価の都市伝説ですが、創価首脳部にとっては都市伝説であることが実は重要であることがわかります。

というのは、よそのブログにも書かれてあるように、例えば選挙戦をやれば功徳があるとか、財務にたくさん寄付すれば何倍にもなって返ってきて幸福になるといった話は、創価の公式なメディアには一切出てません。

聖教新聞などの機関紙・誌にも、ネットの公式サイトにも一切そういうことは書かれてません。

つまり、選挙とか財務などについては、創価としては一切公式には何も表明していないのです。

なぜなら、選挙やれば功徳があるとか財務にたくさん金出せば何倍にもなって返ってくるなどと公式に出すとそれで揚げ足を取られるからです。

だから創価はそういう揚げ足を取られるようなものは公式には出さずに都市伝説化させているわけです。

もちろん、その都市伝説化させているのは末端の会員が勝手にやってることではなく、創価首脳部が意図的に末端の役職者や活動家まで流しているのです。

そうして公式には出さずにあくまでも会員の間で都市伝説化しているように見せかけることが重要なわけです。

そうすることによって、選挙で 功徳があるとか財務に大金を寄付すれば幸福になり、出し惜しみすると不幸になると指導していることに批判が起きても、創価側はそれは末端の会員が勝手にやってることであり創価としてはそんなことを正式に指導などしていないとしらばっくれることができ、全て末端の会員のせいにしてしまえるわけです。

 創価の都市伝説というのは、そういう創価首脳部の悪知恵によって作られたものだと言ってよいでしょう。

それにしても、創価学会というのは本当に狡猾な集団だとつくづく思います。

 

 

 

選挙戦に勝って人生に負ける

創価組織の現実

こんばんわ。

少し前の聖教新聞の記事に、

「人生は勝つためにある」

という大見出しが載ってました。

内容は読んでないので詳しくは分かりませんが、

どうせこの時期なので、

「何が何でも選挙戦に勝て!」

ということを言いたいんだろうと思います。

寸鉄欄なんか見ても選挙戦のことと思われる内容ばかりです。

どこが”政教分離”なんでしょうか?

それはともかく、 「人生は勝つためにある」と言って信者を煽ってますが、仏法は別に勝つための教えではありませんし、たとえ選挙戦で勝ったからといって、それで人生そのものが良くなるわけもないのです。

選挙で勝って得をするのは政治権力を得られる創価首脳部であって、その恩恵は末端の活動家には無関係でしかないでしょう。

いっそのこと最後まで創価に騙されていたことに気づかないまま人生を終えれば幸福なのかもしれないですが、運悪く人生のたそがれ時に気がついてしまったら、「自分はいったい何をしてたんだろうか!」と後悔することになると思います。

そんな創価の活動家は、選挙戦で勝っても人生で負けることになると思いますよ。

創価学会にとって末端の活動家は捨て駒でしかないということに早く気づくべきです。

 

 

盲信活動家はF拡大に狂奔中

バリ活会員の現実

こんばんわ、トウガラシです。

参院選投票日まであと1週間となりましたが、創価のバリ活会員たちもF票拡大真っ最中のことでしょう。

聖教新聞を見ても、盛んに「拡大」の文字が目につき、土曜日の紙面にも「君よ!拡大の新記録に挑め」とか書いてますし、寸鉄欄にも「関西が一糸乱れぬ団結で猛追」とか、「愛知婦人部・女子部が颯爽と拡大」とか盛んに煽るような書き方をしてますが、いずれも選挙戦のことなんでしょう。

そんなことに一生懸命がんばっても功徳なんてないのに、ご苦労なことです。

以前、私の母親が要介護になってから、車を持ってる婦人部活動家が投票の連れ出しに来ていたことがありましたが、今は「私が期日前投票に連れて行くので大丈夫です」と言って断わってます。

私の母は元気な頃はいわゆるユル活でしたが、それでも仲の良い婦人部仲間と一緒にかなり遠くに住んでいる知人のところまで公明票を頼みに行っていたこともありました。

しかし、そんな母でも公明党自民党と連立政権を組むようになってからは「あんなに自民党のことを仏敵のようにけなしていたのに」とその豹変ぶりに不信を抱くようになり、その頃から選挙戦への熱も冷めてしまったようです。

母の場合、伯父ほどには創価を信じ切ってはいなかったので盲信狂信にならずに済みましたが、創価脳の盲信学会員たちはあと1週間、功徳欲しさの狂奔が続くことでしょう。

 

 

 

 

 

 

ストレスの宝庫という創価の現実

創価組織の現実

こんばんわ。

先日、『NHKスペシャル』でキラーストレスについて放送してましたが、

ストレスと言えば、創価学会こそストレスの宝庫だと言ってよいでしょう。

以前にも書きましたが、ネット活動家のようにたまに座談会に顔出す程度の学会活動なら「皆あたたかい人たちばかりで心が癒やされます。創価学会こそ心のオアシスです」などとのんきなことを言ってられるし、そういう人たちならストレスなど無縁でいられるでしょう。

しかし、幹部から言われるままに活動を続けていけば必ずストレスに苛まれることになります。

生活も犠牲にさせられる活動、

成果を上げられなければ幹部から吊るし上げられ罵倒される成果主義組織、

「出し惜しみすると不幸な目に遭う」などと恫喝しては容赦なくさまざまな名目で金集めする営利企業組織、

常識のない盲信狂信活動家たち、などなど。

どれもこれもストレスだらけです。

 それが創価学会なんです。

そういう創価だからこそ真面目な活動家ほどストレスに苛まれることになります。

創価組織が信者にやさしくてあたたかいのは活動家になる前までです。

ネット活動家もそれが分かってるから、たまに座談会に出る程度にとどめ、決して活動家にはならないようにしてるんでしょう。

このような創価組織で一生懸命活動してそれでもストレスを感じないのは本物のバカしかいないと思いますよ。

 

 

創価教学と現実の創価

教学

こんばんわ。

普段読まない聖教新聞ですが、きょうは『教学随想』に学生部教学室長による『立正安国の大道を』と題する論文が載っていたので、いったいどんな屁理屈を書いているのか興味が湧いてきて読んでみました。

その中で次の箇所が面白かったので紹介します。

 

第二に、「悪を見抜き、悪を撃つ言論闘争」だ。

大聖人は、「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」

と、社会を蝕む一凶である念仏を厳しく破折された。

当然のことながら、悪は自らの正体を隠してうごめき、人々をたぶらかす。

現代においても、”国民の幸福の実現”という本来の目的を忘れ、

”黙っていれば、ばれないだろう”と不祥事を重ねる政治家の話題が後を断たない。

さらに、平気でウソをつき、人々の憎しみをあおる勢力も存在する。

私たちは鋭い眼光で正邪を峻別し、破邪顕正の言論闘争を展開したい。

 

言うまでもなく、「悪を見抜き、悪を撃つ」ために「鋭い眼光で正邪を峻別」するならば、

創価学会こそが悪の一凶であることがわかるはずですがね。

「”国民の幸福の実現”という本来の目的を忘れ、”黙っていれば、ばれないだろう”と不祥事を重ねる」

とか、

「平気でウソをつき、人々の憎しみをあおる」

というところなど創価そのものじゃないですか。

それと、今でもまだ念仏思想のことを攻撃してるんですね。

創価は教義変更によって今や教学が破綻状態にあるのに、他宗の教義についてイチャモンをつけられる立場にあると思ってるんですかね?

 いやはや何とも、なかなか面白い論文でした。

 

 

慈悲の行も成果主義の現実

仏道修行の現実

こんばんわ、トウガラシです。

創価学会は人を救う行が折伏だと指導しています。そして折伏こそ慈悲の行だと主張しています。

バリ活学会員もよく「人を救う」という言葉を使って友人知人を折伏しています。

しかし実際のところは折伏は慈悲の行でも人を救う行でもなく、ただの迷惑行為でしかなく、バリ活動家もほとんどの場合、慈悲の心で折伏しているわけではありません。

創価では折伏は人を救う慈悲の行だと言いながら、折伏の成果を信者に強要しています。

各地区、各支部、各本部に折伏達成の目標を立てさせ、その目標数を達成するようハッパをかけてきます。

つまりノルマを課してくるわけです。

そんなノルマを課せられ目標達成できないことを厳しく責められていては、信者としてもただ純粋に人を救おうという気持ちを持ち続けることなどできません。

人を救おうという気持ちよりも、何とかノルマを達成して成果を上げたいと思うものです。

私自身もそうでしたが、そういう自分の成果を達成したいという不純な気持ちで折伏している活動家が多いのではないでしょうか。

ノルマを課せられ吊るし上げられ責められていればそうなるのは当たり前だと言えるでしょう。

結局は人を救うというのは名目であって、実は創価の組織拡大というのが目的であり、バリ活動家は営業マンでしかないのです。

よほどの創価脳でない限り、そういう体験をしていけば、それが分かると思います。

それに、そもそもが創価に入会することが不幸への道でしかないのですから、創価折伏行は人を地獄へ道連れにする行でしかないと言えるでしょう。

 

 

やはりネット活動家だった

独り言

前回の記事の続きになります。

前回の記事で、創価批判している側を批判している創価部外者と思われるブログについて書きましたが、その後、そのブログの記事をいくつか見てみると、創価学会が出版していた漫画雑誌『希望の友』について書かれた記事がありました。

『希望の友』というのは創価系出版社の潮出版社が出していた子供向け漫画雑誌で、1970年代後半以後、『コミックトム』などいくつか名前が変わっています。

そのブログでは、ブログ主が子どもの頃、その漫画誌が家に配達されていたと書かれてありますが、学会部外者が希望の友を購読するというのは考えにくく、してみると、このブログ主はやはり学会員と考えた方がよさそうです。

そう考えるならこのブログ主が創価批判している側を批判しているのも納得がいきます。

このブログ主も自身は活動はしないが創価が好きだというネット活動家の1人なのでしょう。

創価色をブログの前面に出しているネット活動家が多い中、このブログ主のように創価色を隠しているネット活動家もいるようです。

それも戦略のひとつなのかもしれませんが、普段は創価とは無関係な内容の記事を書いていて、たまに創価を擁護するような記事を書くことによって、「学会部外者からも好かれている創価学会」という構図を作りたいのかもしれないですね。

生き残るために創価はいろいろと姑息なことをやっているものですね。

 

創価の実態を知らない外部の第三者について

独り言

今やインターネットを見れば、いかに創価学会によって被害を受けている人が多いかという現状がよく分かります。

それは私自身が同じような思いを抱いてきたからこそよく分かるのです。

しかし、創価学会と直接関わりのない第三者の中には、この現状がよく分からない人もいるようです。

ネット上にあふれる創価批判を見て、創価学会を批判・攻撃している側こそ異常だと書いているブログを先日見ました。

このブログ主は学会員なのか学会部外者なのか当人もあいまいにしか書いてないのでよく分からないのですが、ブログを読んだ印象としては部外者のようにも思えます。

このブログ主を部外者として仮定して書くならば、当人は直接学会から被害を受けたことがないからそういうのんきなことが言えるのではないでしょうか。

創価を批判・攻撃している側こそ異常だと書いてますが、創価がそれだけ批判されるだけのことをしているからこそ批判されているわけです。

批判されるようなことをしている創価を問題視しないで、批判している側を問題視している考え方こそ問題だと思いますよ。

もちろん、創価批判している人の中には遊び半分の暇つぶしの人もいるかもしれません。

しかし、そういう直接創価から被害を受けたことのない暇つぶしの人は、すぐ飽きてしまい、いつまでもそれに関わることはありません。

創価学会に対する批判がいつまでも続くのは、創価にこそ問題があるからであり、今もその創価によって被害に遭っている人がいるからです。

そこのところを考えるべきでしょう。

創価の実態をよく知らない 外部の第三者に、いかにもよく分かっているかのような調子で創価問題について書いてもらいたくない、というのが私の考えです。

また、このブログ主はその記事を見る限り、創価学会を積極的に擁護しているわけではないですが、しかし、創価批判している側を批判することによって間接的に創価を擁護していることになります。

私が危惧するのは、このブログ主のような外部の第三者による間接的に創価擁護しているブログ記事などを「世間では創価学会についてこういう見方をしている」と、創価から利用されるかもしれないということです。

そしてネット上で不当に非難中傷されていると、さも被害者は我々の方だと主張することでしょう。

これまでも創価は「我々は謂れ無き非難中傷を浴び迫害されてきた。それはひとえに我が創価学会が正しい宗教だからである」などと屁理屈を言って自分たちの悪行を正当化してきたことでもわかります。

創価批判を「異常だ」と批判している外部の第三者は当人にそのつもりはなくても、創価の擁護をしていることになるのです。

そういう点を踏まえて、外部の第三者にはブログ記事など書く場合は、慎重な発言をしてもらいたいものです。

 

 

 

 

「拡大」を連呼する創価の実態

仏道修行の現実

こんばんわ

今に始まった話ではないですが、聖教新聞の第一面だけを見ても、「拡大」という言葉がよく目につきますね。

先週の第一面にも「拡大こそ青年の使命 関西男子部が奮い立つ」という見出しが目につきましたし、その前にも「6月 先駆の学生部が拡大月間」という見出しもありました。

数日前の 『きょうの発心』にも「師匠への報恩胸に拡大の大波を」とありましたが、

とにかく「拡大」「拡大」の大合唱といったところです。

今では会合には行かないのでわかりませんが、おそらく各種会合でも幹部が「拡大」を叫んでるんではないでしょうか。

この創価の言う「拡大」というのは信者を増やして組織拡大せよという意味なのか、今度の参院選でのF票の拡大を言ってるのか、今の時期なら恐らく選挙戦のことを言ってるんだろうとは思いますが、いずれにしても、創価学会というのは本来何のための団体なのかと考えるならば、この「拡大」という言葉には違和感を覚えるはずです。

 言うまでもなく、創価学会は宗教団体を名乗っていますが、宗教を名乗っていながら、まるで営利企業であるかのように、あるいは選挙屋のように「拡大」を連呼して信者を煽るというのは、もはやそこに宗教の名に値するものなどないと言ってよいでしょう。

そんな創価を疑うこともなく信じ切って幹部から言われるままに活動に従っている創価脳のバリ活会員たちは「信仰」「信心」とは何かという原点も分からなくなっているようです。

自分たち信者は営業マンをするために、あるいは選挙屋になるために宗教に入ったのかと自問自答してみれば分かるはずです。

何のための信仰かと考えれば分かるはずなんですが、考えることをやめてしまったバリ活会員にはそういうことも分からないのでしょう。

このような「拡大」を連呼して信者を駆り出している実態こそ創価が宗教団体ではないことの証しでもあると言ってよいでしょう。

 

 

選挙戦モードに入っている活動家

創価組織の現実

こんばんわ、トウガラシです。

いま創価組織は「法戦」という名の選挙活動真っ最中のようですね。

私などは組織から離れているのでそれほどそのことを感じませんが、それでも、活動家と接すると「ああ、もう選挙活動に入ってるんだな」というのが分かります。

伯父の法要の時でも、集まった婦人部の活動家が勤行唱題のあとにさっそく公明党のパンフレットを取り出して、「今度公明党の立候補者が講演に来るので是非行って下さい」と差し出してました。

私は口では「はい、はい」と言って受け取りましたが、公明党に入れるつもりはないので、皆帰った後、パンフは読みもしないでそのままゴミ箱に捨てました。

そういえば数年前にも、親と親しかったある活動家の四十九日に参列した時も、法要の席で公明党への投票を遺族から頼まれたことがありました。

法要の席でも選挙の戦いをしているところがすごいなと思ってしまいますね。

バリ活にとってみれば「すごい戦いをしてるじゃないか」と感動するところなのかもしれないですが、もう非活になっていた私などは引いてしまいました。

それもバリ活会員にとっては功徳をもらえるための戦いなんでしょうから、必死なんでしょう。

醒めた側から見れば滑稽でしかありません。