平成2年
国民生活白書
人にやさしい豊かな社会
平成2年10月30日
経済企画庁
第II部 技術と生活
第1章 生活史の中の技術
戦後から現在に至るまでに,我々の生活水準は急速に向上してきた。その要因のひとつとして,様々な技術の発展が挙げられる。以下では,生活に大きなインパクトを与えた製品やサービスを中心にみながら,生活の各場面ごとに技術が我々の生活にどのような影響を与えてきたのかをみていく。
(集合住宅と工業化住宅―住宅供給の量的拡大)
集合住宅では,昭和30年代に日本住宅公団から2DK(ダイニングキツチン)団地が開発,供給され,民間部門でも新しいタイプの集合住宅であるマンションが発売された。その後も大規模化,高層化していった。一方,一戸建住宅も,30年代後半に工場で資材を加工し現場で組み立てるプレハブ住宅が登場し,40年代には住宅の各部を箱のようにユニット化して現場で組み立てるユニット住宅が開発された。日本の伝統的な工法である在来木造住宅の割合が低下しているのとは対照的に,プレハブ住宅など在来木造工法以外の住宅が増加している。
また,壁と床で家を支える壁式構造の2×4住宅も登場した。
集合住宅や工場量産住宅の開発によって,大量の住宅供給が進んだ。30年代以降,大都市圏を中心に住宅需要が高まったが,これに,団地などの集合住宅やプレハブ住宅はこたえていった。大都市郊外における大規模団地の供給は,都市化にともなう住宅不足を解消し,プレハブ住宅も,大量生産によるコスト低下により持ち家取得の機会を広げた。また,素材の開発により耐火性や耐震性,断熱性が向上して,安全性や省エネルギー性が高まった。住宅設備の面でも,ステンレス流し台やユニットバスが開発され,普及率も高まり快適性を大いに高めた(第II-1-12図)。
(住宅形態の変化にともなう生活スタイルの変化)
30年代に登場した団地という新しい居住形態は,都市部の勤労生活者をはじめとして広く一般化していった。とくに,「食寝分離」の考え方に基づく2DKという新しい住居形態は,生活スタイルを大きく変えた。従来,就寝に使用されている部屋で畳に座って食事をしていたものが,台所で椅子に座って食事をするというスタイルに変わり,洋風の生活スタイルが定着していった。マンションの供給も30年代から始まり,40年代にはいると普及タイプの物が供給されるようになり,大衆化した。集合住宅に住む世帯の割合は増加しており,都心部を中心に高層集合住宅に住む世帯が増加している(第II-1-13図)。
マンションは30年頃に登場し,当初は都市部に住む高額所得者を対象に発売された。そもそも「マンション(mansion)」とは,英語で豪壮な大邸宅を意味するものである。マンションは38年頃から一般にも普及し,規模が小さくなり,「高級マンション」から「大衆マンション」へと変わった。その後,地価の高騰によって,郊外に土地付き一戸建住宅を取得することが難しくなり,また,都心部の便利さが認識されるようになり,さらに50年代には,多様な生活スタイルにあわせた様々なタイプが登場するようになったこともあって,広く普及しより身近なものとなっている。
(農村の,近代化と住宅の変化)
戦後,農地改革が進んだことにより農民の生活は安定し,衣食住を始めとする生活改善の要求が高まった。住宅の面では,20年代から30年代にかけて,台所の改善が広く行われた。従来のカマドを中心とする台所では,なにかと不便となったためである。そのため,簡易水道などの給水設備の普及やプロパンガスの導入などとともに,土間から都市住宅型のダイニングキッチンに変わった。
台所設備の改善が進んだことにより,婦人の家事労働は大幅に軽減された。台所以外の住宅全般の改善も行われるようになった。30年代の後半には,個室を重視した間取りへと変化がみられるようになり,個人のプライバシーが尊重されるようになった40年代には,経済の高度成長にともない農家所得も増加し,都市型の住宅がみられるようになった。最近では,,農村地域の特性に応じた居住環境の整備が行われている。
(量から質の時代へ)
43年の住宅統計調査によると,住宅数が世帯数を上回り,住宅の量の面での充足はひとまず満たされ,住宅の質の面の関心が高まってきた。たとえば,従来画一的なデザインであったプレハブ住宅は,多様ケデザインのものが開発されている。最近では2×4住宅も増えつつあるが,これは設計の自由度が高く,欧米の様式を取り入れたものも多いため,生活の洋風化や個性的な住宅を求めるニーズにマッチしている。集合住宅の形式も多様化傾向にある。また,セキュリティーシステムなどソフトサービス付きセンションなどもあらわれ,本来の住むという機能に加えて,よりゆたかに暮らせる機能が付加されたものも現れている。
(衣服を変えた素材技術)
素材の面では,とくに合成繊維の開発が生活に大きな影響を与えた。合成繊維は,20年代後半から30年代にかけて新しい製法が開発され,大量に供給されるようになった(第2-1-14図)。天然繊維に比べて丈夫な合成繊維が安く供給きれるようになり,30年代後半に急速に普及した。合成繊維は,様々な衣服に使用され,安くて丈夫な衣料を手にいれることが可能となった。また,合成繊維は,形が崩れにくく折り目保持性が良いという特性をもっており,アイロンの必要のないワイシャツやズボンも登場した。
合成繊維は,当初,天然素材の代替品として登場したが,その後,素材開発などにより,従来の天然素材にはない優れた機能や風合いをもつた繊維が開発されるようになった。たとえば,スキーウエアでは,保温性とともに防水性や透湿性など様々な機能が求められているが,水蒸気を透し水滴を透さない繊維の開発などで,より快適性が高まっている。スポーツウエア以外にも,新たに開発された繊維の機能を活かして,様々な用途に適した衣服がつくられるようになっている。また,素材の開発によってデザインの自由度が高まり,多様な衣服の生産が可能となった。
(縫製技術と服飾デザインの向上)
縫製技術の面では,30年代から40年代にかけて,自動化の進展により大量生産,低コスト化が可能となり,低価格で品質の良い衣服が供給されるようになった。50年代以降は,コンピュータを使用してデザインを行い,その情報を利用して機械を動かすといった縫製工程のコンピュータ化,システム化が進んでいる。一着ごとにデザインが異なる衣服を自動的に縫製することが可能となり,着る人の感性にあわせた衣服が簡単にできるようになった。
(衣服の多様化,高級化を支えた技術)
多様化するライフスタイルや価値観を反映して,衣服のニーズも多様化,高級化傾向にある。単に着るだけの衣服から,様々なデザインや素材の衣服を,また目的にあった衣服を求めるようになっている。衣服のニーズが量の充足から質の追求に移っていくなかで,合成繊維の開発や製法技術の発達はそれぞれの場面で貢献しており,衣生活のゆたかさを実現している。
食品において利便性の向上をもつとも早く商品化したのは,インスタントラーメンで,初めて発売されたのは33年であった。これは,油揚げ乾燥で調理したものと,その当時開発された防湿性に優れているプラスチック包装との組み合わせにより,保存性を向上させたものである。レトルト食品は,戦前から缶詰めの殺菌に使用されていた加圧殺菌方法を金属缶の代わりに各種プラスチックラミネート袋を使用したものである。これは,100度以上の高温殺菌に耐えうる包装材料が開発されたこと,加圧殺菌中および殺菌終了時に袋の破損・破袋が起こらないような機構をもつた加圧装置を開発したことにより,商品化された。
冷凍食品は30年代前半に開発されたが,チェーンコンベアー方式等で連続的に凍結することができ,大量生産ができるようになってから一般的になった。
冷凍食品は,電気冷蔵庫の普及や大型化と関連しつつ,着実に伸びている。
これらの食品は大きく増加しており,食生活に影響を与えている(第II-1-15図)。レトルト食品,冷凍食品ともに伸びており,即席麺も食数はゆるやかながら増加し続けている。内訳をみると,レトルト食品は発売時にはカレーが多かつたが,それ以外の食品も多くなっている。冷凍食品は調理済みが伸びている。
都市ガス,プロパンガスの普及や各種厨房機器の普及とこれらの食品技術は関連し合いながら発展した。
食べるという側面から利便性を向上させた意味では,外食産業も関係がある。
食料費に占める外食費の割合は増加傾向にある。外食産業の発展には,急速な多店舗化を可能にするフランチャイズシステムの確立,システムキッチンをはじめとした工場生産体制の整備等のシステム化が大きな影響を与えた。
フランチャイズシステムとは,商標使用権等の権利あるいは経営ノウハウを譲渡し,同時に技術援助を行い,その見返りとしてフランチャイズ権取得のための契約金と,ロイヤリティの支払いを受けるというものである。システムキッチンとは,調理過程を中央集中化し,販売組織においては簡単な2次加工しか行わない方法である。これらのシステム化の技術が40年代前半に導入され,外食産業がチェーン化され発展していった。
ワイヤー入りブラジャーのワイヤーに代えて,新素材である形状記憶合金を使用したものが60年に登場した。形状記憶合金とは,一定の形を記憶し,変形しても熱を加えるともとの形に戻る性質をもつている。これまでは,ワイヤーが変形しやすく洗濯機では洗えなかったが,形状記憶合金を使用することによって,変形しても体温で元に戻るため,変形の心配がなくなった。また,ワイヤーに比べて細くなったため,着心地の良いものとなっている。
また,周囲の温度で色が変わる繊維が62年に登場し,話題を集めている。
これは,特殊な樹脂のコーティングにより可能となったものである。たとえば,この素材を使用しているスキーウエアでは,室内では白だが,ゲレンデに出て温度が下がると瞬時に赤に変わるといったように,変化を楽しめるようになっている。
(技術による家事労働の省力化)
30年代に大きく普及した電気洗濯機や電気冷蔵庫など家事労働省力型の家電製品は,生活に大きな影響を与えた(第II-1-16図)。50年代以降には電子レンジも普及している。これらの製品が普及した背景として,大量生産によって価格が低下したことや(第II-1-17図(1)),住まいの変化が進んだことなどが挙げられる。
(洗濯板からの解放)
電気洗濯機が普及したことにより,洗濯という重労働は機械で行うことができるようになり,主婦の家事負担は大きく軽減された。最初は衣類の洗濯だけを機械で行い,しぼる作業は手で行っていたが,30年代後半の買換え時期には脱水機付のものが登場し,40年代後半からは全自動式のものが登場するなど省力化が一層進んだ。最近では,生活時間の深夜化に対応した低騒音タイプの全自動洗濯機が登場し,深夜でも気兼ねなく洗濯ができるようになっている。洗濯機の普及とともに,50年代以降乾燥機も普及し,利便性は大きく向上している。
(冷蔵庫の登場による食料保存の実現)
冷蔵庫についてみると,27年に家庭用の冷蔵庫が発売され,30年代にはいって急速に普及した。その後,機能の面での改良が進み,性能が向上し,40年代には,冷蔵室を分離した2ドアや3ドアタイプのものが登場して冷凍能力が高まった。その後,技術改良により放熱板等の小型化が進むと共にライフスタイルの変化に合わせて大型化が進んだ。冷蔵庫の大型化が進んだことにより,食料品の長期保存が可能となり,スーパーなどでまとめて買ってきて,冷蔵庫で保存するというスタイルが一般化している。
(調理や掃除の簡素化)
電気炊飯器や掃除機も,家事労働の負担を軽くし利便性を高めた。電気炊飯器の登場により,スイッチを押すだけで自動的にご飯が炊けるようになり,主婦に時間的ゆとりをもたらした。40年代後半にはジャー付炊飯器が登場し,温かいご飯がいつでも食べられるようになった。タイマー付の炊飯器も時間的な制約を排除した。50年代にはマイコンを登載し,微妙な火加減を自動化しておいしいご飯が炊けるものも現れた。掃除機も30年代に登場し,リモコン操作や軽量化などが進んだ。
電子レンジは,価格が安くなったことにより,40年代後半から50年代にかけて急速に普及した。オーブンやグリル機能などもあわせもつた複合タイプのレンジができて,焼く,煮る,蒸すなどが一台でできるようになったり,加熱時間を食品の種類や量にあわせて自動的に設定することができるものも開発され,操作性を高めている。60年代にはいると単機能化や低価格化が進み,独身世帯や単身赴任の世帯でも使われるようになっている。
(家電製品の普及と関連財・サービスの登場)
家事労働省力型耐久財の普及とともに,関連サービスや財の登場も生活に大きな影響を与えている。たとえば,電気冷蔵庫の冷凍能力の向上や大型化により,コールドチェーンが発達した。また,冷凍食品などの加工食品も40年代に普及した(第II-1-15図(3))。冷凍食品は,電子レンジと組み合わせて使うことによって調理時間の短縮を可能にし,いろいろな料理が誰でも簡単にできるようになった。電気洗濯機についても,洗浄力の高い洗剤の開発に合わせて改良が行われ,洗濯時間が短縮し,また,少量の洗剤で汚れがよく落ちるようになった。
(進む省エネルギー技術)
消費電力の推移をみると,各製品とも省電力化が進んでいる。トランジスターやIC(集積回路)が真空管にとって代わったことが大きな影響を与えたが,そのほかにも効率の良いモーターや断熱材などの素材の開発により,消費電力は大幅に低下している。冷蔵庫やカラーテレビをみると,容量や型は大きくなつたにもかかわらず,消費電力は以前の小型機より大幅に低下している(第II-1-18図)。
(技術による職場環境の向上)
生活の一分野としての職場環境の変化をみると,工場やオフィスでの機械化,自動化が進んでいる。工場では,40年代以降の工作機械の発達や産業用ロボットの導入により,肉体的にきつい作業が減少して安全性が高まり,女性や高齢者の進出を容易にしている。オフィスでの自動化も50年代以降大きく進展している。とくに,パーソナルコンピュータやワードプロセッサーなどの情報関連機器,いわゆるOA機器の普及が進んでいる。OA機器の導入は,単純事務作業の減少をもたらし,企画などの知的労働のウエイトを高めているが,一方で,OA機器に対応できないのではないかという不安やストレス,VDT(視覚表示装置)作業時における眼を中心とした悪影響など健康面での問題も生じさせている。
(急速に進んだ紙おむつの普及)
紙おむつは,欧米などでかなり以前から使用されており,普及率も高かった。日本でも30年代後半に発売されたが,「もったいない」「なまけものと思われる」などという意識が強かったためあまり使用されず,布おむつが主流であった。本格的に使用されるようになったのは,50年代後半以降である(第II-1-19図)。その要因として,働く主婦が増加したことにより,紙おむつの便利さが理解され始めたことがある。機能の面では,よく水を吸収し,水を逃がさない素材である高分子を吸収材として使用することにより,尿がもれずあと戻りしなくなり,性能が高まった。また,通気性の高い素材を防水シートに使用することにより,むれを防止するなど,乳児にとって快適性が増している。日本での普及率は,欧米と比較するとまだ低いが,近年急速に高まっている。また,今後高齢化が進むことにより,大人用の紙おむつの必要性も高まることが予想される。
(人工栄養の普及)
人工栄養は,戦後,研究,開発が進み,30年代以降急速に品質が向上したことから普及した。栄養面や衛生面でめざましい発展があり,安心して人工栄養を行うことができるようになった。人工栄養は,乳児の栄養供給に貢献し,離乳食を調理する手間を軽減させるなど育児負担を軽減させた。
(育児負担の軽減)
高度成長期以降の核家族化の進展から,主婦一人に育児負担がかかってくるようになった。しかし,紙おむつや人工栄養などの普及等によって育児負担は軽減している。また,乳児をつれて気軽に外出できるようになり,乳児のいる主婦の行動範囲が拡大した原因とも考えられる。
家電製品の普及にともない,電化製品による家事労働の代替が進み,主婦を中心に自由時間が増加した。同時に高度経済成長期に労働時間が短縮した。この増加した自由時間の一部は,技術の成果であるテレビ,音響機器,ビデオなどによって埋められていった。
(テレビの普及と娯楽活動の変化)
テレビは,28年に本放送が始まり,白黒テレビの生産も本格化してきた。当初は,米国からの技術導入を行ったが,30年代には大量生産技術が確立された。そのため,白黒テレビの価格は低下し,普及率が急速に高まり,娯楽の中心がテレビ視聴に変わっていった(第II-1-20図)。35年にはカラーテレビ放送も開始され,より娯楽性が高まった。技術面での変遷をみると,生産開始当初は真空管式であったが,40年代後半にはトランジスターが使用され,その後IC化が進み,小型化や高機能化が進んだ。また,画質が向上し,故障が少なくなった。50年代には音声多重受信装置内蔵のテレビが登場し,2か国語放送やステレオ放送が受信可能となったり,リモコンが一般化して機能性が高まった。省エネルギーの面でも,トランジスターの登場により,従来の真空管方式に比べ1/2から1/3ほど消費電力が低下した(第II-1-18図)。60年代にはいると,大型でも色がにじまないブラウン管の開発により,大画面カラーテレビが登場し,より迫力のある画像が見られるようになった。
(急速に浸透したビデオ)
ビデオは50年代に発売されたが,急速に低価格化,軽量化,高機能化が進み,50年代後半には普及率が高まった。多機能化や留守番録画による利便性の向上など,低価格になりながら性能は向上した。また,小型化,軽量化も進み,テレビの下に収まるほどの省スペース型となり,最近では,コンパクトなカメラー体型が登場し,旅行などへも気軽に持ち運べるようになっている。Hi-Fi化などの高音質化や高画質化も進み,より良い音や画質で楽しめるようになつた。ビデオの普及とともに,ビデオソフトレンタル店やビデオソフトの利用も増加している(第II-1-21図)。安い料金で映画などのレンタルビデオソフトを楽しんだり,ビデオソフトを購入して楽しむといったように,ビデオを見ながら室内でゆったりと過ごす「カウチポテト族」も増加した。そのため,テレビ視聴時間がやや低下傾向にあるのに対して,ビデオ視聴時間は増加している。ンフトの充実にともない,より迫力のある画面や音で楽しみたいというニーズは高まっており,Hi-Fiビデオなど高機能製品の普及が進んでいる。
(音楽生活を支えた音響技術)
ステレオなどの音響製品についてみると,40年代に急速に普及した。とくに,ラジオカセットやカセットステレオデッキの普及はめざましく,音質の向上や取扱の軽便さから急速に普及した。50年代後半には,コンパクトデイスク(CD)プレーヤーが発売され,音質のよさや取扱の手軽さ,ソフトの増加にともない,60年代にはいり急速に普及した(第II-1-22図)。現在では,レコードに代わってコンパクトディスクが主流となっている。
音響製品も小型化,軽量化の傾向にあるが,とくにめざましいのは,50年代後半に登場したヘッドホンステレオであった(第1I-1-23図)。どこでも気軽に音楽が聞けるという点やヘッドホンをしながら街を歩くといったファッョン性により,ヘッドホンステレオは急速に普及した。ステレオもミニコンポが登場するなど小型化傾向にあり,空間的な制約がなくなってきている。若者のあいだでは,音楽がひとつのライフスタイルとなっており,音楽は欠かせないものとなっている。ステレオなどの音響製品は,低価格化,小型化が進んでおり,家族で一台というより一人に一台となりつつある。とくに,ヘッドホンステレオは完全な個人使用のものであり,個人個人自分の好きな音楽を楽しむという個別化傾向が進んでいる。
(スポーツ,レジャーと技術)
新素材がスポーツ用品などに使用され,大きな影響を与えている。とくに,テニスラケット,ゴルフクラブ,釣り竿に炭素繊維強化プラスチックが使用され,従来の素材では難しかった性能をもつ用品が開発された。炭素繊維強化プラスチックは,軽量で高強度という特性をもっている。たとえば,新素材を使ったテニスラケットは,フレームのねじれが小さく,振動を吸収するという特性をもつことができ,また,大きなラケットでもそれほど重くならないので,初心者でも気軽にテニスをすることができるようになった。そのほかにも,ヨットやボートなども木製のものから,繊維強化プラスチックなどの新素材に代わり,軽量化,耐久性の向上などがはかられている。
58年に発売されたファミコンは急速に普及を続け,平成元年には累計で1,400万台以上販売された。ゲームソフトについても機器の普及と同じような比率で販売されている。ファミコンによって疑似体験ができるため,情報機器への接続を小学生からできるようになり,情報機器アレルギーを解消することに役だった。しかし,同時に画面の前に長時間座ることから目を悪くする原因になるといわれたり,人気ゲームソフトを入手する際,小中学生が学校を休んで買いにいったり,子供同士での盗難事件が起こるなどの社会問題も生じた。
(コンピュータによる教育の支援)
教育の面でも情報化の取り組みがみられる。学校の教室では,パーソナルコンピュータなどを使った授業によって,教師の教育機能を拡大させ,児童,生徒の理解力,創造力,思考力を育成するための教育が行われている。コンピュータの助けを利用して学習を進めていくことをCAI教育というが,パーソナルコンピュータの学校への普及とともに,CAI教育への関心は高まっており,利用されつつある。CAI教育は,指導方法を多様にし,既存の指導方法だけでは指導が困難な事柄についての指導や一人一人の能力,適性に応じた個別指導を可能なものとしている。児童,生徒にとっても,これまでの受け身になりがちだった授業から一層参加できる授業となり,そのため,学習意欲を高める効果も出ている。
(受験産業と情報化)
情報機器は,とくに競争の激しいいわゆる受験産業での導入が早く,大きな影響力をもっている。たとえば,受験予備校では,通信衛星を利用した授業を行っており,地方でも東京と同じ授業を受けることができるようになっている。
また,コンピュータグラフィックスなどを利用した授業も行われている。
大学への志願者数の増加に対処するため,情報処理技術が利用されるようになった。受験産業では,より正確に合格の可能性を判定するために,過去からの膨大な情報を蓄積し,処理するという面でも情報化が進んだ。しかし,一方では,偏差値偏重の傾向や学校の序列化を顕在化させるという弊害も指摘されている。
(健康的な生活をもたらした医療技術)
医薬品,医療機器や施設,予防などに関する技術は大きな進歩を遂げ,国民生活を健康なものとしている。とくに,20年代,抗生物質やワクチンの開発によって結核などの細菌感染による死亡者数を激減させ,平均寿命は急速に伸びた。また,最近では,電子技術の進歩により医療用電子機器が開発され,極めて精度の高い診断が短時間でできるようになった。
医療施設では,集中治療室,新生児集中治療室などの進歩が進み,大きな影審を与えている。とくに,新生児集中治療室の整備によって,未熟児でも成育できるようになり,乳児死亡率は大幅に低下した。
(医療の情報システム化)
情報関連機器や通信技術の発達により,医療への情報システムの導入が近年進んでいる。その中でも救急医療情報システムは,救急医療情報センター内のコンピュータと各医療機関,消防本部などを通信回線で結び,センターに各医療機関から患者の受け入れに関する情報を集積し,救急時に適切な医療機関を見つけだして,患者を迅速に搬送するものである。休日,夜間において,適切な診断を受けられる医療機関がすぐに分かるので,患者のたらいまわしが防止され,不時の場合の安心感が得られるようになった。現在,全国31システムが稼働している。
(医療技術の発達と生活)
医療の進歩とともに,医療サービスを受ける機会は増加し,健康に生活していく上で,医療は欠かせないものとなっている。健康を害したときはもちろん,健康の維持,管理の面でも医療機関とは深いかかわりがある。また,かつては人の誕生や死は家で行われていたが,医療の発達によって,生まれるときも死ぬときも医療機関となった (第II-1-24図)。
また,医療技術の高度化によって医療機器なども高額となっており,医療水準の向上をもたらす一方,医療費負担を増加させている。
(システム化,ネットワーク化で実現する便利な買物)
ネットワークシステムのひとつの形態であるPOS(販売時点情報管理)システムの導入により,小売店では消費者のニーズにあわせた品揃えに即座に対応できるようになり,また,在庫管理が容易になったので,多くの種類の品物を少量づつ揃えることができるようになった。その結果,POSシステムを利用しているコンビニエンスストアーなどでは,小さい店舗に3,000種類以上の新鮮な商品を揃えであり,24時間営業化ともあいまって,利便性は大いに向上している。そのため,消費者は,欲しい物を欲しいときに欲しいだけ買えるようになった。
カタログで商品を見て電話で注文し,代金は銀行の口座から引き落とすといつた通信販売などのホームショッピングが普及し,自宅にいながら買物を楽しめるようになった。
戸口から戸口ヘ迅速に小荷物を配送する宅配サービスは,ネットワーク化によって利便性や信頼性が向上し,利用数も50年代後半に急速に増加した。宅配便の登場によって電話一本で業者が荷物を取りに来でくれたり,近くの取次ぎ店まで持って行けば荷物を発送できるようになった。また,所要時間もこれまでより短くなった。最近では,保冷宅配なども登場し,産地からの食品が新鮮なままで送れるようになっている。
(銀行のネットワーク化)
金融ネットワークについてみると,まず,40年代に同一銀行内の本支店間がネットワーク化された。ネットワーク化によってどこの支店でも引き出し,預け入れが可能となった。また,事務処理の迅速化により,待ち時間が短くなった。給与の口座振込が開始されたこともあり,銀行は身近になっていった。50年代には,都銀や地銀といった同一業態内におけるネットワーク化が進み,そのため同一業態の銀行であればどこでも利用できるようになった。また,キャッシュカードの発行枚数やCD(現金自動支払機),ATM(現金自動預入支払機)の設置台数が大幅に増加し,カードを使って現金を引き出せる範囲が広がった。60年代には,CD,ATMの利用時間の延長など,サービス時間帯の拡大がはかられた。対外接続システムにより,自宅にいながら残高照会や振込ができるホームバンキングの可能性も広がっている。
また,電気料金や水道料金などの公共料金の口座自動振替は普及しており(第II-1-25図),クレジツトカードの普及とともに銀行が買物などの決済機能を担うようになっている。
戦後,自動車や航空機などが普及し,多様な交通機関が利用可能となっている(第II-1-26図)。また,一日で移動可能な範囲は格段に広がった。交通機関の発達は,空間的な制約を取り除き,利便性を大いに高めた。
(モータリゼーションの進展)
自動車の生産は,30年代頃から行われていたが,当時は単価も高く高嶺の華であった。40年代にはいり,大衆車の開発や生産面での合理化により,自動車の価格は急速に低下し,自動車は急速に普及していった(第II-1-17図(2))。一方,自動車専用道路などの整備も進み,自動車の高速性能なども大きく向上した。40年代には,生活にゆとりが出てきたため,自動車で行楽にでかけるといったように,娯楽に使用される機会も多かった。その後も改良が進み,燃費や性能が向上した。49年には第1次石油危機が起こり,燃料価格が上昇したため,燃費の良い車が求められるようになり,より一層の燃費向上をめざした技術開発が進んだ。同時に排出ガス対策技術も進展した。電子制御技術の進展により,高性能で低燃費の車が開発されるようになった。また,車内騒音や振動の低下により居住性も高まり,より快適な運転を楽しむことができるようになつた。安全性の面では,安全ガラスや車体構造の改良などが進められている。最近では,走行性能以外にも車のデザインなどにもこだわる傾向にあり,より個性的な車を求めるがニーズ高まっている。
自動販売機は,30年代の前半に登場し,40年代に急速に普及した。40年の自動販売機一台あたりの人口は305人であったが,平成元年には23人となっており,自動販売機はより身近なものとなっている。大量普及の要因として技術的な発達もあるが,一番大きな要因として,昭和42年に100円,50円新硬貨が発行されたことが挙げられる。当初は,切符の販売が大きな割合を占めていたが,40年代後半から清涼飲料の容器の缶化が進展したことなどにより,次第に清涼飲料水や煙草の販売額の割合が大きくなった。その後,電子技術の進展により,20種類以上の商品が販売できる大型機や,音声合成装置が付いた機械が開発されている。
(女性ドライバーの増加と操作性の向上)
女性ドライバーの数も増加している(第II-1-27図)。一家に1台以上の自動車を所有する世帯が増加し,自動車を使用する目的も通勤や仕事あるいはレジャーなどから,買物など身近なものが増加している(第II-1-28図)。住宅の郊外化が進み,スーパーなどへ自動車を利用して買物をしたり,子供を迎えに行くケースが増加しているものと思われる。オートマチック機能やパワーステアリングなど,ドライバーの負担を軽くする機能もつけられたため操作性は向上しており,女性ドライバーにとっても運転しやすい車となっている(第II一1-29図)。自動車メーカーも,女性向けの自動車の開発を行っており,女性にとっても自動車は,ますます身近なものとなっている。
(鉄道網の整備と高速化)
鉄道については,戦後も自動車や航空機が普及するまでは,輸送量において大きな割合を占めていた(第II-1-26図)。そうしたなかで,電化や車両の開発などにより高速化が進められていった。39年に東海道新幹線が登場したが,これは当時の高度技術を結集して,それまで6時間30分かかっていた東京~大阪間を4時間(現在は2時間49分)で結んだ。その後も高速化は進み,現在,上越新幹線で最高速度275キロメートル毎時の営業運転を行っている。在来線においても,走行性能やブレーキ性能などの向上により高速化している。また,新幹線をはじめとして鉄道網の整備も進んでおり,青函トンネルや瀬戸大橋の開通により,北海道から南九州までほぼ全国を網羅している。また,振動などを防ぐ技術が開発され,乗り心地も改善され,快適な旅行ができるようになっている。高度成長期以降,都市化が進んだため,地方では旅客数の減少により路線の廃止が行われる一方,都市部では,地下鉄網の整備や路線増設および列車編成長増大などにより,都市化によって生じた混雑に 対応している。とくに電 車の冷房の普及は,通勤の負担を和らげている。
(急速に拡大する航空輸送)
航空機についても,鉄道と同様に高速化と大量輸送化がはかられた。高速化の面では,プロペラ機からジェット機の発達が大幅に高速化を進めた。また,ジャンボジェット機など機材の大型化により,大量輸送が可能となった。航空機の発達に加えて地方空港の整備により大型ジェット機の就航可能な空港が増え,国内路線数も増加したため,移動時間は大幅に短縮し,航空機での移動可能範囲も大幅に拡大した。これにともない40年代後半から航空機の利用者数は増加した。また,海外への移動時間が従来の船舶に比べ大幅に短縮され,短時間で気軽に海外へ行けるようになった。人の移動の面での国際化には,航空機の発達が大きく寄与している。
(進む電話網の整備)
電話事業は,明治末期にはほぼ全国的な電話網が形成され,昭和18年には,全国の加入台数は108万台となった。第2次世界大戦により国内の電気通信施設は大きな被害を受け,加入台数も戦前の約半分にまで減少した。戦後,通信施設の復旧,整備が進み,30年代には加入者数,積滞数ともに増加した。東京・名古屋・大阪間の即時化が実施されるなど,サービスの改善はあったが,市外通話のほとんどは,依然待時扱いであった。
40年代にはいっても,積滞数は増加の一途をたどったが,このあいだに,通信回線や交換機などで技術開発が進み,たとえば通信回線では,同軸ケーブルやマイクロ波通信の大容量化や高性能のクロスバ交換機の開発が行われた。このクロスバ交換機の導入や伝送路の大容量化は,全国自動即時化などの電話網整備に大きな貢献をはたした。また,生活水準の向上にともない,40年代には住宅電話の普及も急速に進んだ。
50年代には電話網の整備はさらに進み,53年には加入電話の積滞を解消し,「すぐつく電話」が実現した。また,翌54年には,全国の電話自動化を完了し,「すぐつながる電話」が実現した。これにともない,全国のどの場所からも即時に通話することが可能となり,電話の利便性は大いに向上し,通信ニーズは高まった。
(電気通信事業における競争原理の導入と新しいネットワークの形成)
60年には電気通信事業法が施行され,電気通信分野にも競争原理が導入されることになった。これにより,第1種電気通信事業への新規参入が可能となり,料金の低廉化,高品質で多様なサービスの供給が進んだ。これを可能にした技術的な背景は,光ファイバーケーブルや通信衛星などの新しい伝送路の開発,デジタル化やデジタル交換機の発達により,複数のネットワークが接続可能となったことである。これらの技術の進歩によって新しい電気通信メディアが実用化され,より多様で高度な通信ニーズに対応できるようになっている。
(電話で広がるコミュニケーション)
電話の普及にともない,通話回数も増加している。電話をかける目的も,用件があるからかけるという目的をもつたものから,おしゃべりなど友人,知人と会話を楽しむといったようなものまで幅広いものがあり,電話は人と人とをつなぐコミュニケーションの一つの手段となっている。電話をかける回数は,主婦や高齢女性が比較的多い。また,大学生や若い単身者は通話時間が長く,友人や恋人とのおしゃべりや遊びの約束のための通話が多くなっている。また,この世代は自分専用の電話をほしがる傾向にあり,若い世代では,電話が友人との交流を支えるものとして定着しているものと思われる。
(多機能電話の普及)
電話機についても,電気通信事業法施行後は,一定の技術基準に適合するものであれば自由に選択できるようになった。電話機の種類も多くのメーカーから多種多様なものが提供されるようになり,色や形など消費者の好みに応じて選べるようになった。また,従来回線側で行っていた機能が,半導体技術の発達によって電話機などの端末側で行えるようになったので,短縮ダイヤル機能など多くの機能をもった電話機が数多く現れるようになった。
電話機の形態も,電話線のないコードレス電話や自動車電話,携帯電話が登場し,ある一定範囲内であれば,自由に移動しながら電話をかけることができるようになった。相手の静止画像が見られるテレビ電話も登場している。
(テレビの普及と情報の平準化)
都市部から始まったテレビの普及は,数年遅れて地方へも波及し,40年代にはほとんどの世帯にテレビが行きわたった。テレビの登場は,娯楽性を高めたという面もあるが,一方では情報の平準化をもたらした。30年代から40年代にかけて,情報供給量は大幅に増加したが,これは,テレビの普及やテレビ放送局の増加によるところが大きい。従来の情報メディアであるラジオの比重が低下したのとは対照的に,テレビの占める割合は増加した。また,情報の受入先もテレビの割合が圧倒的な割合を占めるようになった。放送時間の増加により情報の選択の幅は広がり,テレビ放送局も全国で増加したため,テレビによる情報の伝達範囲も急速に広がった(第II-1-30図)。また,38年には通信衛星による外国との衛星中継が可能となり,いながらにして世界の情報を見ることができるようになった。その後の衛星放送の開始やCATV(有線テレビジョン放送)の普及などにより情報の供給はさらに多様化している。
テレビの登場によって,地方でも都会の情報を享受することができるようになったが,テレビ番組はおもに東京や大阪などのいわゆるキー局で制作されていることから,東京など都市からの情報が一方的に地方へ流れるという面もある。また,映像による情報伝達が生活のなかに定着し,活字よりも視覚的な情報が受け入れやすくなる傾向になっている。