激しく同意する記事との出会い
朝5時半に起床して昨夜思いついたネタを元に記事を書き始めました。記事を書く途中で集中力を欠いたので読者登録しているブログを巡回していると、激しく同意する記事を発見しました。
ブログ界の先人であるコバヤシ氏がお怒りです。
- なぜ連絡してこない?
- 1週間の準備が無駄になった!
- 普通は連絡をするだろう?
- 約束を守らないのは多いのはわかっているが
- とにかく連絡しようぜ!
これは自分が思っていることとあまりにも同意できる内容です。コバヤシ氏には『激しく同意です。』とコメントを残しましたが、あんまりにも同意しすぎたので記事にしてみることにしました。
人間が怒るポイントとライン
当たり前ですが人間は嘘をつかれたら怒ります。そしてその嘘の程度で相手を許すかどうかが決まります。軽い冗談なら笑って許しますが結婚詐欺で大金を奪われたりしたら笑って済ますことは出来ません。
しかし、その嘘の程度が同じであっても嘘をつかれた側の許せるラインによってそれは変わります。つまり、軽い冗談であっても怒り狂う人もいれば、一般では大金と呼ばれる額を騙し取られる結婚詐欺に遭った人でも、幸せだったと笑って許す人がいます。
『普通』『当たり前』『常識』はどこへ行った?
- 普通は連絡してくるものだ
- それが当たり前だ
- 常識ならこうする
こう言いたくなることが世の中多すぎます。コバヤシ氏も書かれていましたが。自分も仕事上スタッフの面接を行っていましたが、本当に『面接に来ない』『連絡してこない』『採用しても連絡が取れなくなる』ということが往々にしてありました。当然、自分もそうやって『普通は連絡してくる』『それが当たり前』『常識がわかっていない』と思います。
『普通』『当たり前』『常識』の基準が変わってくる
そういうことが繰り返されると、『普通』『当たり前』『常識』といったことの基準が変わってきます。
- 連絡が来ないことに慣れてしまう
- 面接に来ないことが当たり前になってしまう
- 常識は通用しないものと思ってしまう
電話で応募があって、面接の時間を決めて、面接をして、礼をして帰っていく。
たったそれだけのことが出来る人を凄いことことが出来る人だと思ってしまう。基準が変わってしまったおかげでそう感じてしまうのが恐ろしく感じます。そして、それが時代の流れに対応することだとは思いたくはありません。絶対に。
自分が良ければそれで良い
すべての現象はこの言葉で済まされるのではないかと思います。
- 面接に行かなくても仕事に困らなければそれで良い
- 約束を破っても自分が困らなければそれで良い
- 常識を守らなくても自分が困らなければそれで良い
そうとしか考えられませんがいかがでしょうか?
以前は『誰にも迷惑をかけなければ、それでいいでしょ?』だった
ちょっと前は今よりもマシだったかもしれません。とりあえず迷惑をかけることは悪いことだと認識していて、迷惑をかけない範囲で好きにやることで満足していたはずです。いつからそれが変わってしまったか、変わることを許してしまった自分達おっさんが悪かったのかわかりません。しかし、自分の感覚ではそうなってしまっているように思います。
もしかしたらラインを緩めてしまっているのか?
最初にも書きましたが、人が許すか許さないかはそのラインで決まっているのではないかと思います。もしそのラインを下げることで他人に迷惑をかけることが悪いことだと気がつくなら、コバヤシ氏が唱えるように一歩も下がらず怒りを吐き出し続けるべきかもしれません。
この先はどうなるのか?
- 他人に迷惑をかけなければ、何をしても良い
- 自分が困らなければ、他人に迷惑をかけても良い
- 自分が得をするために、他人に迷惑をかけるべき
自分のとっては皮肉なことですが、インターネットのおかげで今後個人で出来ることは増え、その力は増大していくでしょう。そうなると共存共栄や相互扶助といった言葉はどんどん力を弱めていくかもしれません。他人に頼らず生きていけるようになったらそうなってしまうのかもしれませんね。
個人的には人間というのは群れを作って生きていく生き物なので、人肌が恋しくなるとか人間同士でいるとうれしくなるとかそういうものが、本能とかDNAレベルで備わっている物だと思っているんですけど、どうなんでしょうね?
自分なりに怒りを吐き出してみる
オイ!お天道様!いるならもうちょっと仕事してくれ!
ちょっと誰に向かって書いているかわからなくなりましたので、この辺で終わりにしておきます。ご精読ありがとうございます。そしてコバヤシ氏にも感謝します。ネタをありがとうございます。
でわ、股!!