自分は現在、東京で社会科の教員をしているのですが、教えるときにいつも難しさを感じるのが部落差別の問題です。
 今の東京の中学生や高校生だと部落差別についてまず知らないですし、「結婚や就職などで差別があったりする」と言ってもなかなかピンとこない様子です。結局、「江戸時代には「えた」、「ひにん」と呼ばれていて」といった歴史的な経緯を中心に話すのですが、いつも部落差別を知らない生徒に部落差別の存在を教えることに引っ掛かりを感じていました。

 そうした部落差別を語ることの難しさを、部落出身のライターである著者が解きほぐしてくれたのがこの本。
 部落差別をなくすための取り組みの相反する方向性を明らかにしつつ、橋下市長の出自をめぐる『週刊朝日』の問題や、映画「にくのひと」の上映をめぐる問題、さらに部落での新しい動きなどをとり上げることによって、今なお続く差別や、解消のための方向性を探ろうとしています。

 目次は以下の通り。
第1章 被差別部落一五〇年史
第2章 メディアと出自―『週刊朝日』問題から見えてきたもの
第3章 映画「にくのひと」は、なぜ上映されなかったのか
第4章 被差別部落の未来

 著者は「はじめに」の部分で、基本的に、あらゆる反差別運動は非差別当事者を残したまま、差別をなくすことを目指している、と言っています。障害者差別に反対する障害者は「障害者でなくなること」を目指しているわけではなく、「障害者のままで暮らせること」を目指しているわけです。
 しかし、部落解放運動に関しては「部落民のままで暮らすこと」と「部落民でなくなること」の間を揺れ動いてきました。
 このことについて著者は次のように述べています。
 部落解放運動は、部落民としての開放を志向しながら、「どこ」と「だれ」を暴く差別に対して抗議運動を続けてきた。しかしそれは出自を隠蔽することにもつながる営為であった。部落民としての解放を目指しながら、部落民からの解放の道を歩まざるを得なかった。
 差別をなくす過程で、部落を残すのか、それともなくすのかという課題を、私たちは整理できていないのである。現在起きているさまざまな問題は、この部落解放運動が抱える根本的矛盾から派生している、と私は考える。(9p)

 第1章では、全国水平社から始まる部落解放運動の歴史が振り返られています。
 水平社宣言のなかでは、「吾々がエタである事を誇り得る時が来たのだ」(26p)と、「部落民のままでの解放」が宣言されていますが、実際、すべての部落民が「部落民のままでの解放」を望んだわけではありませんでした。

 また、全国水平社の創立大会の参加者から「(宣言では)自らは、特殊部落民、エタといっていて、自分たち以外の人がこう呼ぶことはけしからん、というのは、どうも納得がいかない」との声も出たそうで(31p)、呼称の問題はこの後もずっと付きまとうことになります。
 著者は「あってはならない存在を固定化するという矛盾を、部落解放運動は当初から内包していたのである」(32p)と言います。

 その後も部落の暮らしは改善されず、1960年に発足した同和対策審議会の答申を受け、1969年に同和対策事業特別措置法が施行されることになります。
 しかし、この同和対策事業は、「どこ」と「だれ」を明らかにしなければしなければ前に進まないものでした。そして、33年間で15兆円が投じられた事業によって部落の環境は大きく改善されましたが、結果的に部落(同和地区)を残存させることにもなりました(44ー45p)。

 このように書いていくと、やはり「部落民でなくなること」(部落を解消していく)を目指していけばよかったのではないかと感じる人もいるかもしれませんが、差別というものはそう簡単なものではありません。
 
 この本の第4章には、大阪の箕面市の北芝という場所で、新しい部落の形を模索する人達の姿が紹介されてます。
 同和対策事業特別措置法の功罪や、それを乗りこえて新しい街づくりを進める人々の姿は非常に興味深いのですが、その個々人のエピソードの中に部落問題の根強さが顔を出しています。

 例えば、1950年代半ば生まれで新しい街づくりを始めた世代の人々は、部落出身でありながら、部落差別の話を聞いて、「この世の中に、そんな差別なんかあるかい」と答えたそうです(188p)。
 しかし、交際だ結婚だとなると差別にぶち当たります。当事者が「部落民でなくなっても」、周囲がそれにこだわるのです。21世紀になった今でも、こうした差別に直面する若者は少なくありません。

 そして、部落に対する「外からのこだわり」を露呈させたのが、この本の第2章で取り上げられている橋下市長をめぐる『週刊朝日』の記事の問題でした。
 ノンフィクション作家の佐野眞一によるこの記事では、橋下氏の父親が部落出身者であることが指摘した上で、その出自と橋下氏の性格や本性を結びつけるような記述がなされていました。
 この連載は橋下氏からの抗議もあり、すぐに打ち切られることになりましたが、この記事自体も部落に対する差別意識があってこそ成り立つような記事でした。

 著者は、こうした橋下氏の出自を「暴く」記事が『週刊朝日』以前にもいくつかあったことを指摘し、その誤りについても書いています(橋下氏は大阪市の同和地区に引っ越して暮らしていたと報じられているが、そこは同和地区の隣接地区であって同和地区ではない、など)。
 橋下氏の主張や政策への批判があるのは当然ですし、人間的に好きになれないといった感情を持つ人もいるかもしれませんが、それが今なお「出自」や「血脈」と重ねられてしまう。そういった社会意識が、少なくともマスコミには生きているのです。

 また、部落問題がこじれているのは、部落解放運動を進める側の閉鎖性や定まらないスタンスにも原因があります。それを明らかにしているのが第3章の映画「にくのひと」の上映中止をめぐる問題です。
 2007年、ある大学生が食肉センターを取材したドキュメンタリー映画を撮影し、部落解放運動の研修会やアムネスティ映画祭で好評を博し、田原総一朗ノンフィクション賞の佳作を受賞しましたが、結局、一般上映されることはありませんでした。
 食肉センターのある地元の部落解放同盟の支部から「待った」がかかったからです。

 支部が問題にしたのは、「エッタ」という言葉が使われているシーンと、地名や食肉センターの住所が明記されているシーン。
 食肉センターの住所を表示するのは、どこが部落であるのか知らせているのと同じだという主張なのですが(143p)、これに対し、食肉センターの責任者で撮影を許可した中尾氏は「”寝た子を起こすな”という考え方と一緒や」(145p)と批判しています。
 解放同盟の中でも、「部落民のままで暮らすこと」と「部落民でなくなること」の両立し得ない二兎を追うような態度が見られるのです。
 こうした状況で、「触らぬ神にはたたりなし」と遠ざけられているのが現在の部落問題ではないでしょうか。

 この状況に風穴を開けるものとして紹介されているのが、先ほどの部分でも少し触れた、第4章の北芝という地区を紹介した部分です。
 部落であること隠すのではなく、また一方的に援助を受けるわけではなく地域として自立していこうとする姿は非常に興味深いものです。
 
 橋下市長は「いわゆる被差別部落の問題をひとつひとつ解決していこうと思えば、役割を終えたものはできる限りなくし、普通の地域にしていくのが僕の手法」と述べたそうですが(276p)、著者は「そう簡単に歴史が風化するわけではない」(277p)と言います。また、ネットの普及は「風化」を許さなくなっています。
 「出自」や「血」といった全近代的な感覚ではなく、「歴史を背負った地域」という見方で部落問題を考えていくことが必要なのでしょう。

 なお、この本の持つ問題意識については、梶谷懐氏のブログでより広い視野からとり上げられています。一読をおすすめします。

ふしぎな部落問題 (ちくま新書)
角岡 伸彦
4480068961