数学の贈り物

2016.07.01更新

 数学について、いろいろな人と語り合う機会がある。もちろん数学が好きな人もいれば苦手な人もいる。数学の魅力について目を輝かせて語ってくれる人もいれば、それと同じくらいエネルギッシュに「なぜ自分は数学が苦手か」を熱弁してくる人もいる。

 たとえば、「分数の割り算から意味がわからなくなった」「−1×−1=1の意味がわからなくてついていけなくなった」等々、「あるところまでは楽しかったのに、あるときからわからなくなった」と、数学の(苦い)思い出を語ってくれる人もいる。そういう人たちはなぜか、「意味がわからなくなった」ことを以て「挫折」と決めつけてしまっているようである。

 だが、分数に割り算を導入したり、−1×−1=1と定めたりする瞬間に「意味がわからなくなる」のは、少しも恥ずべきことではない。誤解を恐れずに言えば、そこには端から「意味」などないからである。

 分数の割り算や、負の数によるかけ算は、何か既知の「意味」を表現するために導入されるのではない。「2/3を3/4で割る」とはどういう意味か、「-1に-1をかける」とはどういう意味か、無理に説明しようとすればできないことはないが、意味のことなど少しも考えなくても、2/3を3/4で割ることはできるし、-1に-1をかけることはできる。ひとたび記号運用の規則を身につけたなら、意味がわからなくても行為(計算)できる。意味は、むしろ行為のあとについてくる。

 分数の割り算をどのように定義すべきかや、負の数によるかけ算をどのように定めるべきかは、semanticalな(≒意味の側からの)要求によってよりも、syntacticalな(≒記号が従うべきルールついての)要請によって決まる。

 たとえば、なぜ「(-1)×(-1)=1」でなければならないか。これは自然数のかけ算がみたす「分配則」を保存したまま、負の数の間にもかけ算を延長しようとした場合に、必然的に導かれる帰結だ。

 一般に、自然数のたし算とかけ算に関しては、

       a × (b + c) = a×b + a×c

という「法則」が成り立ち、これを「分配則」と呼ぶ。この法則を負の数まで延長しようとすると、自然に(-1)×(-1)の取るべき値も定まるのである。

 実際、負の数を含む計算に分配則を課すならば、

       (-1) × { 1 + (-1) } = (-1)×1 + (-1)×(-1)

が成り立つはずで、このとき左辺は (-1)×0=0、右辺の(-1)×1の部分は(-1)となるゆえ、

       0 = -1 + (-1)×(-1)

となり、 (-1)×(-1)=1が導かれる。(*1)

 数は、当初は日常の中の「意味」を表現するために導入された道具だったろうが、ひとたび記号として自立してしまえば、今度は記号世界の秩序にしたがって、自律的に展開していく。負の数の間の演算は、日常の意味を記述するために定義されるのではなくて、守られるべき記号操作のルール(この場合は分配則)にしたがい、自然に定まってしまうのである。

 要するに、 (-1)×(-1)=1でなければならないというのは記号の側からの要求であって、そこにあらかじめ予定された「意味」などないのである。別の言い方をすれば、記号が、意味の先まで人を導くのである。それで、最後まで「意味不明」のままであれば数学も面白くないが、実際には記号が要求する行為(計算)の反復によって、次第に意味がつくりだされていくから面白い。

  a × (-1) = -a

 という演算規則にしたがって数を運用するとき、脳内に「数直線」のイメージがあれば、(-1)をかけるたびに、かけられる数が原点の反対側に飛ばされていくような感覚を生じるだろう。4を-4に、19を-19に、あらゆる数を数直線の原点に関して対称な場所に飛ばす「行為(action)」として、「×(-1)」という演算が次第に「意味」を帯びてくるだろう。そうすれば、 (-1)×(-1)=1というsyntacticalな(≒記号運用上の)ルールもsemanticalに(≒意味として)自然に見えてくる。一度原点に関して反対側に飛ばした数を、再び反対方向に飛ばせば元に戻る。これが空間的に解釈された「 (-1)×(-1)=1」という計算の「意味」である 。(*2)


 いずれにせよ、行為に先立って意味があるわけではない。記号運用のルールにしたがった計算の反復の果てに、意味はあとからついてくるのだ。

 だから本当は「意味がわからなく」なってからが数学は面白い。意味不明でも辛抱強く計算していると、まるではじめはサラサラだった葛湯が次第に固まってくるように、少しずつ意味の手応えを感じるようになるだろう。

 数学を勉強していて意味がわからなくなった瞬間、自分が数学に「ついていけなくなった」と落ち込む必要はないのである。本当は、自分が数学についていけなくなったのではなくて、意味が数学についていけなくなっただけかもしれないのだ。自分が数学に「置いて行かれた」のではなく、自分が数学とともに意味を後ろに置いて行ってしまっただけかもしれないのである。


 行為に先立つ意味はない。これは日常において、むしろ常識である。

 赤児は「意味不明」の世界に生まれ落ち、ただひたすら全身でもがく。暗中模索の行為をくり返しながら、様々な意味を獲得していく。

 赤ん坊におしゃぶりを与えるときに、おしゃぶりの意味を説明してから手渡す親はいないだろう。おしゃぶりは彼にとって「彼がすでに知っている意味」によっては説明できない何かだ。それ故、意味もわからず、とにかく握ってみたり、咥えてみたりするしかないのである。やがて、しゃぶり続ける行為の果てに、彼はおしゃぶりの「意味」を体得するだろう。

 椅子の意味、ドアノブの意味、マグカップの意味......

 すべてはそれと関わる行為の中から浮かび上がるものである。

 それなのに、なぜ数学を学ぶときだけ、人は行為に先立つ意味を求めようとするのだろうか。分数の割り算を練習する前に、負の数のかけ算をくり返す前に、どうしてその意味を教えてくれというのだろうか。

 それは数学を「説明のための言語」だと誤解しているところから来るのかもしれない。たしかに算数もはじめのうちは、日常の中のありふれた現象を記述するための道具として導入される。りんごの個数を数えるための「数」や、お金の計算をするためのたし算やかけ算がそうである。だが、説明や記述のための言語というのは、数学のごく狭い一面にすぎない。数学は説明するだけでなく、それまでなかった新たな概念、新たな操作、新たな方法を生み出しながら、意味のフロンティアを切り拓くのだ。


 大人になると、意味の世界は安定していく。いままで知らなかった新たな意味に遭遇することは滅多になくなる。椅子は相変わらず椅子で、ドアノブは相変わらずドアノブである。安定した意味の世界は平穏で退屈だ。

 数学は、この退屈を突き破る。新たな記号と記号運用の規則を導入すれば、人はそれまでに経験したことのない意味不明の(しかし既存の行為を自然に延長していると思われるような)行為に耽ることができる。その行為の反復が、新たな意味を立ち上げる。

 数学の力を借りて人は、いつまでも幼子のようであれるのだ。


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(*1) (-1)×0=0、(-1)×1=(-1)となる「理由」も分配則によって説明できるが、ここでは簡単のため省略した。興味のある読者はぜひ考えてみてください。
(*2)「原点に関して反対に飛ばす」を「原点に関して180度回転」と解釈し、「では90度回転に対応する数は?」と問えば、複素数を平面上に配置する「ガウス平面」も見えてくる。


お知らせ

森田さんとミシマ社で、3カ月に1回開催している「数学ブックトーク」が7、8月と東京・京都でつづけて開催されます!
「数学ブックトーク」は、森田さんお墨付きの数学にまつわる本についてトークをしながら、数学って、生きてくって、なんだ? ということを縦横無尽に駆け巡る、刺激たっぷりのトークライブです。
お申し込みは各イベントページをご覧ください。ご参加お待ちしています!

7月18日(月・祝)13:00〜 @青山ブックセンター
8月6日(土)13:30〜 @恵文社一乗寺店




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森田真生(もりた・まさお)

1985年東京生まれ。東京大学理学部数学科卒業。現在は京都に拠点をかまえ、独立研究者として活動。全国で「数学の演奏会」をはじめとするライブ活動を行っている。2015年10月、デビュー作『数学する身体』(新潮社)を刊行。2016年2月には、編纂を担当した岡潔の選集『数学する人生』(新潮社)が刊行となった。ミシマ社では、数学にまつわる本を紹介しながら、数学を通して「生きること」を掘り下げるトークライブ「数学ブックトーク」を共催。2016年1月には、ライブで手売りすることを元に作られた『みんなのミシマガジン×森田真生 0号』(ミシマ社)が発刊された。

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