渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う

走るためだけの車 レーサーの事 ~目的の純化と内実のピュアさについて~

2016年07月01日 | 内的独白



ヤマハのレーサーTZは美しい。そして速かった。
この写真は後に日本人と結婚したアメリカ人、世界チャンピオン
キングことケニー・ロバーツの若き日の一枚。
後に最高峰クラスで世界王者となる彼の世界戦デビューはヤマハ
のTZ250でのミドルクラスへの参戦だった。

私はTZ250は1983年製が一番完成されていたように思える。


最悪は1985年製でね(笑。某ヤマハサテライトチームの有名ライダー
から「もうね、捨てたくなりますよ」と笑いながら言われたが、
まじもんで整備性の悪さにぶったまげた。細かいところではもっと
いろいろあり、85TZは完全な「失敗作」だっただろう)。
さすがに見直すところが多くあったからか、たった一年でヤマハは
85タイプをポイした(苦笑
翌年1986年製の市販レーサーTZ250はワークスマシンのような
アルミフレームとホイールと心臓を持つ車になってしまった(笑)。
価格はたった15万円上がっただけだった。
レーシングマシンは価格そのものは200万以内で買えたが、消耗パーツ
代、オイル代、遠征費が年間その数倍かかった。大卒初任給12万円、
年収200万円の時代にマシン本体は140万円ほどで購入できたが、
年間活動費は勝つためにはノービスでも300万~500万ほど必要だった。
かといって金持ちだけがレースをやっていたのではない。ほぼ全員が
食費を削り、命を削り、走らない時は昼夜すべて高額な危険仕事等で
働いて資金を捻出していたのだ。
だが、1985年型TZで1986年も走ろうとしていたノービスライダー
などはまったく勝負にならない年になったのが1986年だった。
長らくミドルクラスへの参戦を休止していたホンダも2サイクルの
レーシングマシンを投入してきた。それがRSだった。85年頃のRS
は自殺マシンのような不出来さだったが、ホンダの開発技術力は
ヤマハを遥かに凌駕し、年々どころか日々秒単位でどんどんマシン
は進化向上した。ハンドリングでヤマハにはかなわないという
傾向は持続したが、圧倒的なエンジンパワーをホンダは叩き出して
いた。

ただ、やはり私個人は、250レーサーはヤマハTZへの思い入れがある。

モリワキの宮城君は、なぜあの日の筑波最終コーナー立ち上がり
で常に半クラを使っていたのだろうと今でも疑問だ。タイムリーに
筑波でつぶさに見ていたが、これは33年経った今も解明できない。
まあ、ぶっちぎりだったからよかったが半クラ多用して1レース
クラッチがもつわけないのに、どうしてぶっちぎりで勝てたのか・・・。
半クラ自体はギアレシオのセッティングに起因するということが
推測できるが、もっと別の何か新しい走法を彼は試していたように
思える。
私ね、劇画『バリバリ伝説』の主人公グンの乗り方の原形イメージ
は宮城光選手だったのではと思う。作者の先生は宮城選手をどこか
イメージしていたのではなかろうか。
そして、バリ伝といえば、容貌はヤマハの若獅子、町井邦夫さんが
主人公グンにそっくりだった。

ヤマハのレーシングマシンTZについてはこちらの記事が凄い。
雑誌とかでも間違いというものはかなり多いのだが、それを
ドンズバと指摘している。 ⇒ こちら

ドンズバ指摘というレベルではない。きちんとした見識で、しかも
かなり当時の状況に詳しい。私がロードレースの世界の内側の人間
になったのは1976年だが、このサイト記事の記述者の記載内容は
100%正しいと私自身は認識できる。
正しいか正しくないかはインサイドに己がいないと分からない。
筆者は語る。
「とはいっても、認識不足、間違いだらけの記事は雑誌屋のお家芸
である。この記事の最も大きな問題点は全体の構成にある。当時の
全体像をよく知るライター氏 不在で、メカニックの思い出話、TZの
開発に携わった技術者のインタビュー、コレクター紹介記事を寄せ
集めただけの記事で、TZがどんなマシンだったか理 解しようとして
も無理である。」
その通りだ。
この秀逸かつ良質な資料サイトのメインメニューはこちら
  ⇒ 日本のファクトリーモーターレーシングサイクル

バイク専門誌の編集部でバイトしていたことあるけど・・・
かなり雑誌記事というのはテケトーなことも多いからね。
某オカルティックな武術雑誌でも、昔、刀工小林康宏は薪で
刀を鍛えるとか編集者が何を勘違いしたのか書いたりした。
薪で刀を鍛えられるわきゃねーだろっつーの。炉の温度管理
保温の時に炭節約で薪を使うのと鍛錬焼き入れで岩手産の
炭を使うのを混同したんだな、編集執筆者は。
しかし裏を取らずに雑誌記事を真に受けた小説家森雅裕氏は
作品中でそれを以て小林康宏を揶揄中傷する記述を為したりした。
編集者も駄目ならモノカキもダメダメじゃんとか思う。
そのモノカキの彼はバイク乗りだったが、昔クールスが言って
いた「バイク乗ってる奴らはよぉ、いい奴ばかりだからぁ」ての
は、あれは嘘だな。いい感じの奴もいれば、嫌な奴もいる。
何かをやっているから、その人は良い人だなどと思い込むのは
まったくの見当違いだろう。
特に武術をやっている人間で人品高潔にして聖人君子のような
人間には私はとんとお目にかかったことがない。たま~にいるが。
それは武術というものの根源的なところに触れると、権謀術数、
裏技から毒殺までなんでもあり、というのが「武」の世界である
ということと密接不可分ではあるまい、と個人的には思ったりする。
武術の本質に近づけば心は汚れる。だが、本質をはぐらかすと
おためごかしの美辞麗句を並べる健康運動になる。
昔の武術求道者がどんどん武術をつきつめてくると、今度は精神
的な「徳」を希求しだしたのは、あれは武の本質がものすごくエグ
くてドラスティックであることが見えてきたからだろうと思う。
そして、大抵は当時は仏教が国内の宗教だったので、武術をやる
人間は仏教坊主と繋がりを求めたりした。禅などの仏教用語が
多く流派の思想や術名に援用されるようになった。
でも、「殺」は「殺」でしかないから。私はそう思っている。
殺の技術習得から人品高潔になり人格形成が成されるということは
ありえない。
人格形成は親からの躾と教師からの教えと本人の自覚によって
生まれるものだ、と私は思う。武術やったから人格形成される
とか野球やったから礼儀正しくなるとか、そういうことは一切
ない。現実的に世の中を見回せばいい。一切ない。

TZの雑誌記事は記者の誤認だが、居合や武術の公開演武などは
「ある理由」により隠して部分的に本物ではないことをやること
がある(古流の場合はこれまじで多い。香取などもそうだが)。
それを見抜けずに表面面だけで批評などすると・・・。
まあ、不見識というか「見抜けない」ことを曝すことになるので、
あまり技前についての批評を分かったような口で言わないほうが
いいように思える。
私はどんな動画等を見ていても「何か裏にあるかも」という感じで
いつも熟視している。
たとえば武術だけでなく、レース動画(これはほぼ三味線はなしの
ガチンコ)などでも、チェンの動きやサスの動きから「何がどうな
のか」ということを掴み取ろうとしている。
それでも見抜けないことが多い。

それと、昨夜、複数名から連絡もらって教えてもらったURLの某
アングラ裏ネット大通りを見たけど、なんだかひどいこと書くね、
ああいう人たちというのは。ゆんべ見て驚いたよ。私の師匠の
個人名まで出して非難してる。私が自分の日記で自分の師匠の名を
書くのと2ちゃんで「こいつどうよ?」みたいに晒して投稿するの
とは意味が全く違うだろうにそれも認識できない人が中心になって
わめいている。やり口が典型的な2ちゃんねらーというものだが、
俺のこと虎の威を借りるキツネとか、そりゃ文字通り自分の自己紹介
だろっつーことで笑えた。
たぶん、てめえ一人の力で人と殴り合ったこともないのだろうなあ、
と思う。少林寺や空手のようなものではなく、本物のやくい状況で。
虎の威云々の発想自体が如実に示している。僕ちゃんなのかねえ。
なにも、砲撃の中、銃弾にも当たらずに生還できた経験を持てとは
いわないが、なんてのか、てんで話にならない。一発ぶん殴られたら
泣いちゃうのではなかろうか。
まあ、それはともかく、昨夜読んでみて、そこで書いている人たちの
人間性と思考方法は凡そ理解できた。
およそまともな人間ではないことは見てとれ、いわゆるあれでは
実社会では話にならない。
やはり、ああいう悪意の溜まり場のような裏物ネットやそれを
心の拠り所にするような連中には関わり合うもんじゃないね。
放置が最適。オタきもし。てか、自称武術家なんてのはあんな
もんよ。
俺、書いてねーし(苦笑)。
どこまでねつ造すりゃ気が済むんだよ(笑

ロードレースは嘘も裏もない。そこが面白い。
てか、レーシングライダーの良いところは、まっしぐらなのよ。
くだらんことをごちょごちょ陰で言ってる暇はないし、ライダーは
そういうことに興味もない。
そして、1980年代~1990年代当時のマシンの開発者は、寝る時間
もほとんどないほどだったことだろう。
それでも、人の心はピュアだった。
今の時代はピュアではなくプアだ。

全剣連の居合選手は自称古武術家たちからは馬鹿にされたり揶揄
されたりすることがあるけど、全剣連の居合道の試合選手はとても
いいとこがあるよ。
それは裏ネットやくっだらない自称古武術家たちの嘘偽りで塗り
固められた俺様自慢の世界とは無縁であるということだ。
そんなことに時間を割く暇もなければ興味もない。
居合選手を目指す人たちは、サーキットを駆けるレーシングライダー
に似ている。
自称古武術家たちからスポーツだと馬鹿にされることがなんだと
いうのだ。
せこい人間大量生産の古武術よりもスポーツマンシップを重んじる
スポーツのほうがずっと人の心が澄んで精神が豊かになる。
嘘偽りと他者攻撃を繰り返してふんぞり返る汚い人間性を醸造する
ことになる古武術など、人の生涯のなんの足しになるというのか。
居合道はスポーツ、それで結構。だが、スポーツは正々堂々とした
クリアな世界の住人がやることである。
居合道=スポーツ論はまったくもってその通り。それでよろしい。
「殺」を目的とした古武術とは根源から異なる。
(「殺」を目的としていれば人間が汚くもなるよなぁ・・・)


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