keisukeの徒然草

徒然なるままに…

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【メモ】ゲディスバーグ演説「人民の」問題まとめ

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リンカーンのゲディスバーグ演説での有名なフレーズ「人民の、人民による、人民のための政治」は果たして誤訳か???議論は錯綜しており、インターネット上でも双方の見解が見られます。なお、敬称略。

■ゲディスバーグ演説原文(米国議会図書館)
http://www.loc.gov/exhibits/gadd/

ゲディスバーグ演説の原稿は5種類見つかっており、米国議会図書館ではそのうち2つ(Nicolay DraftとHay Draft)を保存している。

○Nicolay Draft
and that government of the people by the people for the people, shall not perish from the earth.

○Hay Draft
and that this government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.

※Hay Draftでは"this government"となっている。

■ゲディスバーグ演説各国語翻訳(同上)
http://www.loc.gov/exhibits/gadd/gtran.html

○中国語訳
「要使民享、民治、民有的政府必不致在地球上消滅」
※「民有」となっているから日本語だと「人民の」に対応する。

○ドイツ語訳
in welcher das Volk allein durch das Volk zum besten des Volkes herrscht, nicht von der Erde verschwindet.
※ドイツ語は分からないのでノーコメント(涙)

○日本語訳(高木八尺、斉藤光訳)
「そして人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させないため、であります」


■「人民を」派

○山形浩生「プロジェクト杉田玄白」
http://www.genpaku.org/lincoln/lincoln01.html

「人民の、人民による、人民のための政府」と訳すのがふつうなんだが、なんとなく耳あたりはよいのでみんな流してきいてしまう一方で、これがどういう意味かをきちんと考え、説明できる人は少ない。特にいちばん最初の「of the people」の部分。ふつうはみんな、「人民の」というので、「人民が所有する」という意味だと思っている場合がほとんど。そうではなく、これは統治される対象が人民であることを指しているのだ。

アメリカ建国以前の政府というのは、人民(という統治される対象)を、官僚や貴族たち(という統治する主体なり実体)が、王さまや教会(という統治の旗印なりなんなり)の利害のために支配する、という形態だったわけだ。それとの対比で考えてもらうと理解しやすいかと。


○ced「人民の人民による人民のための政治。」
http://members.jcom.home.ne.jp/p-d-l/memo/gettysburg.html

「人民の人民による人民のための政治」ではなくこの文脈に即して訳すとすれば「人民による人民のための人民の統治」となる。つまり、of the peopleは統治権力を持っている側ではなく、統治される側のことを指す。


○薬袋善郎「学校で教えてくれない英文法―英語を正しく理解するための55のヒント」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4327451657/

カスタマーレビュー
濃い内容。理詰めで明快。2004/01/10 レビュアー: knst 神奈川県 Japan

米国のリンカーン大統領が1863年ゲチスバーグで行った演説"government of the people,by the people,for the people"は従来「人民の、人民による、人民のための政治」と訳されていた。しかし、この訳文をよく読むと「人民の」というのは何を意味するのか判然としない。実はこれは名詞構文と言って、述語動詞をその名詞形に変える事によって文を名詞化したもので"government"は「統治する事」であり "people"は"govern"の意味上の目的語である。従って"government of the people"は「人民を統治する事」となる。従ってリンカーンの言葉は「人民を、人民が、人民のために統治する事」となるのである。


○Philip B. Kunhardt, Jr. A New Birth of Freedom: Lincoln at Gettysburg
http://www.mrlincolnandthefounders.org/inside.asp?ID=6&subjectID=4

The Declaration's 'all men are created equal' had been used before by Lincoln in his Henry Clay eulogy. And the use, in various forms, of the three prepositions — of the people, by the people, for the people — has been attributed to at least twelve men, including Patrick Henry and Daniel Webster. Probably the most likely source was Theodore Parker, the abolitionist minister from Massachusetts whose lectures and sermons had been printed and were called to Lincoln's attention by his law partner William Herndon. 'Democracy is self-government,' Parker has said, 'over all the people, for all the people, by all the people.'"

※リンカーンの"of the people"がパーカーの"over all the people"に由来するとすれば、「人民に対する統治」又は「人民を統治」するの意ということになる。

■「人民の」派

○マーク・ピーターセン「ニホン語、話せますか?」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4105445014/

「英語との比較」の話ではないが、最近『丸谷才一の日本語相談』(朝日新聞社)にも驚かされた部分があった。きっかけは、こんな「問い」である。「リンカーンの有名な言葉、『人民の、人民による、人民のための政治』ですが、『人民による、人民のための政治』だけで意味を尽くしていると思います。『人民の』には、どういう意味があるのですか。助詞『の』について詳しく説明してください」。この場合の「の」の曖昧さが指摘されて、鋭い質問だと思ったのだが、その答えに、こんなことが書かれていた。「government of the people, by the people, for the peopleは、『人民を、人民によって、人民のために統治すること』の意である」。つまり、government of the peopleのofは、「所属」(例:a member of the team)や「所有」(例:a friend of mine)、「材料」(a ring of gold)等々を示すようなofではなく、「目的格関係」(例:the exchange of opinions=意見を交換すること)を示すofだ、と説明しているわけである。英語圏で141年以上も続いてきた常識的受け止め方が引っ繰り返される、リンカーンも驚くにちがいない、突拍子もない文法的解釈だ…

リンカーンの言葉について簡単に言えば、government (which is) of the people (and is) by the people (and is) for the people(ちなみに、中国ではこれは「民有、民治、民享的政府」と訳されているようだが)のof the peopleは、いわば、「人民の合意の上で出来た」や、「人民の間から生まれた」などのような意味を表している。リンカーンはこの言葉で「government=政治」を説明しているわけで、governmentに統治されているのはthe birdsでもthe flowersでもなくthe peopleだよと、わざわざ述べる必要も意図も、いうまでもなく、ない。


○katok「ゲティスバーグ演説の翻訳」
http://hw001.gate01.com/katokt/Gettysburg.htm

リンカーンのこの演説は、歴史的に以下の2つの演説の流れにある…

Daniel Webster. (1782-1852)

The people’s government, made for the people, made by the people, and answerable to the people.

Second Speech on Foot’s Resolution, Jan. 26, 1830. P. 321.

Theodore Parker. (1810-1860)

A democracy, that is a government of all the people, by all the people, for all the people; of course, a government of the principles of eternal justice, the unchanging law of God; for shortness’ sake I will call it the idea of Freedom.

The American Idea: Speech at N. E. Anti-Slavery Convention, Boston, May 29, 1850.

もちろん違う人の、違う演説だから直接の証拠にはならないけど、特に一つ目の演説の「of the people」にあたると思われる「The people’s government」で人民を統治の対象とみなすのは少し無理があると。
それから、二つ目の演説にもある democracy の語源をチェックすると ギリシャ語:democratia = demos(people、人民)+cratos(power、力)
なんてところですか。つまり民主主義は、語源からいえば人民が(統治する)力をもつことをいってるわけ。二つ目の演説も民主主義を定義していて、その government of the people も「人民が統治する力をもつ」って意味で、よって「人民の政治」ということになると。

※同じパーカーを典拠としながら逆の結論になっている点が興味深い。

○でかぷりのページ「国民主権」
http://plaza.rakuten.co.jp/decaprix/5001

(日本国憲法前文の)「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。」という文章は簡単にいうと次のようなことを言っているのです。

A.その権威は国民に由来し=その国の政治は国民のもの
B.その権力は国民の代表者がこれを行使し=その国の政治は国民(の代表者)によっておこなわれる
C.その福利は国民がこれを享受する=その国の政治は国民のためにある
これを、さらにいいかえると、
A=人民の政治 the government of the people
B=人民による政治 the government by the people
C=人民のための政治 the government for the people
これはどこかで聞いたことのある言葉ではありませんか。そう、アメリカ合州国大統領リンカーンの有名なゲティスバーグの演説のなかの言葉です。
the government of the people , by the people , for the people
(人民の、人民による、人民のための政治)
日本国憲法の文章では、むずかしく書かれていますが、リンカーンの言葉と同じく、民主主義の基本的な考え方が述べられているのです。


○Dr.町田のページ「リンカーンのゲティスバーグ演説」
http://www7.plala.or.jp/machikun/rincoln.htm

英語はその歴史において屈折言語である状態から格変化を捨てて、前置詞を多用するようになり、ofという前置詞を生み出した。このofがラテン系言語の前置詞deと等価であることが理解できて私には初めてリンカーン演説の意味が理解できた。すなわちリンカーン演説の「of the people」というのは「政治を行う権限は人民自身に由来する」ということを言っていたのだ。したがってかの演説は「人民自身から(その権限が)由来する、人民自身が行う、人民のための政治」という意味だったのである。リンカーンは政治(原語に忠実に訳せば「統治」ないしは「政府」)というものは人民自身がそれを行うべき権限を持っているのだ、そして実際に自分たちのために自分たちの手でそれを行うことが必要なのだ、ということをこの演説で言いたかったにちがいない。だからこのof the peopleが一番大切であり、一番最初に言ったのであろう。


■その他

○桐生タイムス2004年7月6日論説「心に響く言葉がほしい」
http://www.kiryutimes.co.jp/news/0407/06/editorial_00.html

ところで、リンカーンの文言の中にはとても大事な「間」が潜んでいるという。演説を生で聴いた人びとはこのときのリンカーンが『ガバメント・オブ・ザ・ピープル』と言った後、だいぶ間を置いて『バイ・ザ・ピープル』と言った、と伝え残した。つまり大統領の思いの中で『ガバメント・オブ・ザ・ピープル』は主語だったと、戦後間もない英語の授業で、当時の教師から、そう教えられた人たちがいる。主語が登場することで、これは単なる政治の理想ではなく、「人民の政治とは、人民による政治であり、また人民のための政治である」という民主政治の要諦となる。

※間をおくと本当に主語になるのだろうか?動詞がないのでは?

○柴田耕太郎「ひとさまの誤訳(第6回)」
http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/eigo/goyaku6.html

こう識者の意見が割れると、解釈の許される範囲で文脈を読み、自分なりの理解をする、というしかなくなってくる。私はかつて自著(「翻訳家になる方法」青弓社)に次のごとく記したが、皆さんの判断はいかがだろうか。

「人民の人民による人民のための<>」というが、何かもどかしかった。
by以下は言い換えだ、と教えてくれたのは予備校のS先生。
「人民の政治、それ即ち人民による人民のための政治」ofは目的格関係だよ、と説いたのは大学のO先生。「人民を、人民が、人民のために統治する」
リズムを合わせただけ、と断言したのは翻訳家のC 先生。「普及している訳でいいのだ」
翻訳は範を超えねば自由なのである。

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東京新聞と「メール脳」

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前回紹介した「ゲーム脳」研究の森昭雄教授ですが、各方面から叩かれて少しは反省するかと思いきや、性懲りもなく今度は「メール脳」と題する研究を発表しています。発表の内容は「携帯電話でメールを打ってばかりいると大脳の前頭前野の活動が低下し、痴呆症に似た状態になる」というもので、要はゲームをメールに変えただけです。当然のことながら、内容のトンデモぶりも前回と同じ、いや前回以上です。

「一見、メールで文章を作っているので脳が働いているように思えますが、実際は一覧表から言葉を選んで文章を作っており、ほとんど前頭前野は働いていません。指の筋肉を収縮させているだけです」と森教授は厳しく指摘する。

いったい全体どうすれば脳を働かせることなしに「一覧表から言葉を選んで文章を作っ」たり、「指の筋肉を収縮させ」たりできるのでしょうか。素人の私でも分かるほどに支離滅裂です。

もっとも、私の意図は森昭雄教授を指弾することではありません。迷惑な人だとは思いますが、ひょっとしたら世間から注目されたいだけの寂しがり屋なのかもしれません。いつの世にもおかしなことを言う人というのはいるものです。紅茶キノコでガンが治るという人もいればスカラー波で病気になると言う人もいます。憲法が表現の自由を保障している以上、こうしたトンデモ言論の出現自体は仕方のないことなのです。ひとつずつモグラ叩きのように論破していくしかないのです。それが憲法が「思想の自由市場」に期待する役割なのです。

問題は、こうした支離滅裂な主張を何の検証もなしに掲載する東京新聞です。報道機関には、世の中に溢れる雑多な情報の中から、重要であるものとそうでないものを選別し、国民に適切な議題を提供する公的責務があります。だからこそ「報道の自由」や「取材の自由」というある種の特権(※)が報道機関には認められているのです。「メール脳」のような明らかに真実性の疑わしい主張を、ただ話題性があるからというだけで、何の検証もなしに掲載してしまうというのは、報道機関として決してしてはならないことだと思います。

随分前の話になりますが、月刊誌『マルコポーロ』(文藝春秋社刊)がナチスによるホロコーストを否定する内容の寄稿記事を掲載し、在日イスラエル大使館やユダヤ人団体等から猛反発を受けて廃刊に追い込まれる事件がありました(マルコポーロ廃刊事件)。

今回の東京新聞による「メール脳」報道も、本質的にはこれと同じだと思います。違うのは、「メール脳」報道によって槍玉に挙げられた女子高生たちがユダヤ人団体ほどの政治力を持っていなかったという点だけでしょう。


※マスコミ関係者や学者の中には、報道の自由や取材の自由は「人権」だという人がいますが、これは正しい理解でありません。人権とは「人が人であることによって当然に保障される基本的権利」のこと。報道の自由や取材の自由は、「国民に民主的討論の基礎となる情報を提供する」という理由から報道機関に特に認められた権利ですから、人権ではなく、報道機関の「特権」であると理解すべきです。このような理解からは、報道の自由や取材の自由は、人権である表現の自由とは異なった、特別の制約に服することになります。


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元村有希子記者とゲーム脳

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先日紹介した理系白書blogの元村有希子記者、どんな記事を書いているのか気になってちょっと調べてみたところ、例の「ゲーム脳」騒動の発端の記事を書いていたことが分かりました。

知らない人もいるかもしれないので、一応解説しておくと、2002年7月、日本大学の森昭雄教授が「テレビゲームをすると、人間らしい感情や創造性をつかさどる大脳の前頭前野の活動が目立って低下する」という内容の「研究結果」を発表、その後、ほぼ同じ内容の新書本をNHK出版から「ゲーム脳の恐怖」と題して発刊しました。これを毎日新聞が大々的に報道し、他のマスコミや、普段からテレビゲームを快く思っていなかったPTA等の各種団体も巻き込んで、少年犯罪の増加等はテレビゲームが原因だとする、テレビゲーム糾弾の大合唱が起こったわけです。

ところが、これに対しネットを中心に反論が展開され、実はこの「ゲーム脳」理論、間違いだらけで科学的にナンセンスな内容であることが判明。精神科医の斉藤環氏からも出鱈目である旨の書評が寄せられ、挙句の果てには「ト学会」から「トンデモ本」認定されることに。風説の流布により業務を妨害された形のテレビゲーム業界は、法的責任追及の構えを見せます。

これに慌てたのが火付け役の毎日新聞。「国は科学的検証すべきだ--ITには負の側面も」と題する論説を掲載し、国費で「ゲーム脳」について「本格的検証」を行うべきだと主張します。以下、引用とツッコミです。

「ゲーム脳」が波紋を広げている。私は7月にこの仮説を記事で紹介した。あれから4カ月たつが、予想外の展開にやや困惑している。「やっぱりゲームは悪い」対「ゲームいじめだ」という、感情論の対立で語られることが多いからだ。ゲームが脳に与える影響について、社会の関心は高いのに、科学的な検証が足りないことを痛感する。国による本格的な研究を提案したい。

「波紋を広げている」「社会の関心は高いのに」など、まるで他人事のような書き方ですが、散々センセーショナルに「ゲーム脳」を煽ったのは他ならぬ毎日新聞です。「科学的な検証が足りない」といっていますが、この記事が書かれた2002年11月28日時点で、「ゲーム脳の恐怖」が間違いだらけであることは既に斉藤環氏らによって反駁の余地なく論証されています。国民の税金をトンデモ理論の検証になど使ってよいのでしょうか。

「前頭前野の機能低下は「キレる子」との関連も指摘される。この知見と結びつき、ゲーム脳は社会問題になった感じがする。私も多数の投書を受け取った。大半は親の世代や高齢者からで、「ゲーム漬けの子どもが心配」「だから子どもは外で遊ぶべきだ」というものだった。

反論もあった。「悪いのはゲームではなく、子どもを管理できない親」という意見や、森さんの手法を「ゲームイコール悪、という前提に立ったゲームいじめだ」という批判だ。全くゲームをしない私は、感情論の応酬に戸惑った。


論点がすり替えられています。ネットを中心に非難の声が上がったのは、責任ある報道機関が、「ゲーム脳」などというトンデモ理論を、よく調べもせずに、センセーショナルに報道したからです。森教授の「研究発表」が議論を呼ぶ内容であることは、記事にする段階で元村記者も分かっていたはずです。そうであるならば、せめて同分野の専門家にコメントを求めるぐらいのことはするべきでした。そうすれば、森教授の理論がトンデモであることはすぐに分かったはずです。

「ゲームはお菓子みたいなものだ。おいしいし、気分転換できる。しかし食べ過ぎれば虫歯になる。歯を磨けば済むのか、それとも栄養が偏って病気になるのか。分量を決めて食べるか、お菓子を甘くなくしてしまうのか。いずれにしても、判断の基準が欲しい。

これは滅茶苦茶です。お菓子を食べ過ぎれば虫歯になることや、栄養が偏って病気になることは、確立された科学的知見です。これに対し、ゲームをすれば大脳の前頭前野の活動が低下するというというのはユダヤ陰謀論と同レベルのトンデモです。両者を同列に扱うのは馬鹿げています。小学生だってこんな論理のすり替えには騙されないでしょう。

「ゲーム脳」は、ゲームというお菓子に対して誰もが漠然と抱く不安を突いた。しかし「不安」のままではまずい。仮説が追試され、反論され、鍛えられることが必要だ。IT化を進め、白書で持ち上げる国にこそ、マイナスの影響を科学的に検証する義務があると、私は思う。

読んでいてだんだん悲しくなってきます。ちょっと考えれば分かることですが、森教授の理論は学会誌にアクセプトされたわけでも何でもありません。自分で勝手に発表して本を出しただけなのです。もし国が今回のようなケースについてまで「影響を科学的に検証する義務」があるのだとすれば、国は歯に重力発電装置としての可能性があるかどうかや、古代クレタ文明と忍者の関係についてまで科学的に検証しなければならなくなります。これではいくら税金があっても足りません。

要するに、元村記者は森教授の「研究発表」を十分な裏付け取材もせずにセンセーショナルに報道し、ひとたび森教授の理論がトンデモであることが明らかになり、自分たちにも責任が及びそうになると、今度は国に責任を擦りつけようとしたわけです。

まさに「ゲーム脳」騒動は、日本のマスコミの救いがたい無責任体質を象徴する事件だったと言ってよいでしょう。

さて、そんな元村有希子記者が書く理系白書blog、果たしてどうなることやら。。。

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理系白書blog

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毎日新聞で「理系白書」を連載中の元村有希子記者のblogを見つけました。
新聞記者の方が実名と身分を公表してblogを開設しているというのは珍しいですね。
個人の責任で開設しているのか、それとも会社の業務として開設しているのか気になるところです。
前者だとすれば、画期的なことですが、後者だとすると残念ながら単なる宣伝ですね。
芸能事務所が開設しているタレントのblogと本質的に同じで、blogブームに便乗してみましたってことでしょう。
ページを見ただけではどちらだか判別がつきませんが、前者であることを願いつつ、生暖かく見守りたいと思います。
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