「猛将」嶋左近の書状2通 大阪で見つかる
石田三成の重臣だった戦国武将・嶋左近の書状2通が大阪府内の民家で見つかったと、東京大史料編纂(へんさん)所と長浜城歴史博物館(滋賀県長浜市)が1日発表した。左近は「猛将」として人気が高い戦国武将だが史料がほとんどなく、完全な書状が見つかったのは初めて。関東の大名に向けて領地の統治法などを指示しており、猛将の文官的側面を示すものだ。
書状は、三成の主君・豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした小田原の陣の直後に出された。1通は1590(天正18)年7月19日付で、常陸(茨城県)の大名・佐竹義宣の家臣・小貫頼久宛て。もう1通は同7月25日付で佐竹氏一族の東義久宛て。
小貫宛てでは人質を出し渋る常陸の大名(大掾=だいじょう=氏)への対応を相談し、東宛てでは検地や兵糧米の徴収など統治方法について指示している。東大史料編纂所の村井祐樹助教は「小田原の陣後、左近が豊臣政権の一員として、関東で政治的な細かい動きをしていたことが分かる。豊臣政権の東国支配の方法を知るうえでも貴重だ」と話している。
左近の名が記された1次史料はこれまで、署名の断片が確認されているほか、奈良の興福寺関係者による「多聞院日記」(7カ所)と三成の文書(2通)程度しかなかった。
今回の書状は村井助教が昨年11月、先祖が和歌山藩家老だったという民家を秀吉の調査で訪れ、くしゃくしゃに丸められた状態で見つけた。三成研究の拠点となっている長浜城歴史博物館と共同で調べてきた。紙質や言葉遣いが戦国時代のもので内容も史実と一致し、断片の署名と書状に記された署名が似ている点などから、左近の書状と判断した。
博物館は「伝説の人物の実像に迫る画期的な発見」(太田浩司館長)として、特別展「石田三成と西軍の関ケ原合戦」(7月23日〜8月31日)で公開する。【若本和夫】
嶋左近
名は清興で、左近は通称。大和(奈良県)出身とされる。4万石の三成が2万石を与えて召し抱えたという逸話や、秀吉の言葉とされる俗謡「三成に過ぎたるものが二つあり、嶋の左近と佐和山の城」が残る。関ケ原合戦での勇猛な戦いぶりは「鬼神をも欺く」とたたえられた。