薄情だと、友達がないそうです。ある時代の文豪が言っていました。
わたしはこの年齢に至るまで、ほとんどの時間、友達をもたずに生きてきました。友達というのは諸刃の剣で、輪に入らば誰かを輪の外へ追いやりたい気持ちになり、その対象が自分にならぬよう細心の注意を払わなければならない性質があります。
その面倒を引き受けるのが厭で、今までこうして生きてきたのです。それなりに自分の時間を生きることが出来たと思います。
人間は、どうしたって裏切るのです。
その時々で感情が切り替わってしまうし、長きに巻かれます。ギリギリまで巻かれまいともがけば、ほとんどの人がもうすでに別の価値観で生きているのを目の当たりにするでしょう。
たまたま自分に強い使命感や価値観のなかったわたしは、長きに巻かれることには抵抗ありませんでした。しかし、根があまのじゃくに出来ているので、価値観を問う場面になると、ついさっき聞きかじったばかりの価値観のかけらを取り出して、さも自分の考えであるかのようにつばを飛ばして虚勢を張りました。自分の生き方に無理やり自分で芯を通していたのです。
それに気付いた人はわたしを笑いました。笑う人につばを飛ばして、嫌な顔をされると気持ちが良かったです。
わたしは自分の信じる信念も価値観も持たぬまま、男女共同参画社会に投げ出され、隣に居てくれる人の価値観を自分のものであるかのようにつばを飛ばして虚勢を張りながら、役職を全うしています。
わたしには何の価値もありません。あるのはただ老いてゆくみすぼらしい女の肉体と、うまく作動しない感情制御装置のみです。自分さえ、自分でうまく動かすことができません。
わたしには、友達がありません。
その理由を書き並べて納得しました。小さく、生きてゆこうと思えました。身の回りのことに関心をもち、それを広げすぎずに小さく生きれば良いのです。笑う人を見ない鈍麻な心と、所属しない自由さを抱きしめるのです。
たくさんの面倒を引き受けないかわりにやっと手にした自由さです。それを抱きしめながら、流れるように生きていきたいと思ったのでした。
たくさんの人がある中で、ずっと同じ色でいるのは大変なことです。医者の家系に生まれたから、ずっと人を助け続けるのは大変です。
たまに色をもち、人とかかわり、疲れてしまったらとうめいになってしまえば良いのです。とうめいな人はその人だけの世界でひとりきり、生きる自由があるのです。とうめいであることを寂しいと感じるあまり、無理に色をつけてしまっても結局おなじなのです。
頭がおかしいと言われてしばらくたちますが、特に生活で困ったことはありません。いやなことは忘れてしまえばいいのです。とうめいになって、頭の中もぜんぶ、空っぽにしてしまえばいい。