“ゲーム研究と美学”がテーマのブログ「9BIT」を紹介

ELL75_eye

 いままで日本のゲーム研究をおこなう機関としてデジタルゲーム学会や日本eスポーツ学会などを今までご紹介させていただきましたが、今回は個人のブログでゲームに関する研究のヒントを与えてくれる「9BIT」をご紹介させていただきます。
ELL75_yousyohondana20120620_TP_V1

ゲーム研究と美学をテーマにしたブログ「9BIT」。書評なども

 「9BIT」は、美学や芸術哲学(分析美学)をベースにビデオゲーム研究を手がけている立命館大学の松永伸司氏が運用しており、ゲーム研究における美学の役割(当ブログを運用している本人の研究テーマに対する立ち位置)を提示したうえで、様々なゲーム研究に関する記事、また書評やゲーム研究についての本への感想、ゲームレビューなどの投稿をされています。
 当ブログでのゲーム研究は、テクノロジーなどによってゲームが受ける影響の広がりを研究するというよりは、ビデオゲームの持つ意味作用や概念整理のモデルとしてゲームを俎上に上げるなどの、きわめて人文学的なテーマです。
 

 
一部、内容を紹介させていただきます。

ゲームプレイの定義についての対話


先々週くらいに、ゲームプレイの定義について井戸里志さん(@kan_jiro)とTwitterのDMでいくらかやりとりした内容が有意義だったので、転載します。


最初の文で井戸さんは、ゲームを〈ゲームプレイさせるもの〉として定義しているわけです。つまり、「ゲーム」概念は「ゲームプレイ」概念によって定義されると主張している。これは、ある意味で「ゲーム」よりも「ゲームプレイ」のほうがより本質的な(より分析のすすんだ)概念であるという考えだろうと思います。
 
個人的にこれには同意です。以前やった発表(行為のデザインとしてのゲーム)では、ゲームを行為のデザインの一種としてとらえたうえで、ゲームをほかの種類の行為のデザイン(法律とか建築とか)から区別するものはなにかという議論をしました。そこでの主張は、以下のようなものでした。
 

  • ゲームは、それが生み出す(よう意図されている)行為がそれ特有の独特なものであるという点で、ほかの種類の行為のデザインとはちがう。
  • ゲームが生み出す独特な行為は、ゲームプレイという行為。
  • それゆえ、ゲームの本質はゲームプレイにある。
  •  
    この主張が、上記の井戸さんの考えと一致しているのは明らかです。
     
    もちろん、ここまでだと「ゲーム」の定義を「ゲームプレイ」の定義に丸投げしたというだけです。ゲームの本性を探究するためには、ここからさらに進んで、その「ゲームプレイ」と呼ばれている行為は実際のところどんな種類の行為なのか、それはどんなかたちで特徴づけられるのか、といったことを考える必要があります。
     
    ゲームプレイの本性をどう考えるかについての議論は、上記の発表でも雑にやってるんですが、より細かい議論を拙博論(ビデオゲームにおける意味作用)の1節でやっております。そこでの主張は、一言でいうと「ゲームプレイとは自己目的的な行為である」というものです。
     
    引用元:9BIT「ゲームプレイの定義についての対話」

     
     eSportsが注目される昨今ですが、未だに日本のなかでのビデオゲームの社会的地位は十年前、二十年前と比べてその技術的な内容ほど大きな変化を見せていないように感じます。
     社会のなかでゲームがさらに広く受け入れられ、奥行きと深みのある素晴らしい文化であることが理解されれば、テクノロジー以外のところでのゲームの存在する意味も大きく変化していくのではないでしょうか。人文学的なアプローチでのゲーム研究に興味のある方は、この「9BIT」を一度ごらん頂くと参考になるかと思います。
     
    9BIT ゲーム研究と美学