先日、日本一有名なサラリーマンともいわれた、あの島耕作氏が、ちょっとした騒動を起こした、らしい。
島耕作とはもちろん、あの漫画の主人公のことである。
弘兼憲史先生の代表作『課長 島耕作』は、島耕作が出世したため、続編のタイトルが『部長 島耕作』となり、さらに出世して『取締役 島耕作』となった。
それにとどまらず、彼は出世街道を爆走、『常務 島耕作』になり、やがて『専務 島耕作』なり、とうとう『社長 島耕作』になり、しまいには『会長 島耕作』となって天下を取った。
一方で弘兼先生は島耕作スピンオフとして、『ヤング 島耕作』『係長 島耕作』と時間を戻した作品も生みだし、現在は『学生 島耕作』という、大学を舞台にした作品を展開していらっしゃる。
このままだといずれ、『幼稚園児 島耕作』『乳児 島耕作』『精子 島耕作』と生前まで戻っていくんじゃないかと、妙な期待もしてしまう。
このたび「プチ炎上」などといわれているのは、『学生 島耕作』におけるある設定だ。
舞台は1960年代の早稲田大学。学生の島耕作は、当時さかんだった学生運動に共感できず、距離をおくことを決める。
ーーという展開に対し、熱心な読者たちから、おいおい、とツッコミが入ったらしい。
ファースト島耕作、といえる『課長 島耕作』には、島が学生時代を振り返る場面があり、そこでは、「学生運動にはそこそこ参加していた」と書かれていたのだ。
読者からの、「どっちが真実なんだ!」という指摘に対する弘兼先生の見解はこう。
「大目に見てくださいよ」(極端な抜粋)
ですよね~
私は全三巻までの漫画しか描いたことがないが、それでも、三巻に入る話を描いているときは、一巻を手に取って確認することがしょっちゅうだった。
このキャラのバックグラウンドはどんなんだっけ、服装はどんな感じだっけ、あのキャラと絡むときの姿勢はどうだっけ。
漫画の世界において、作者は神であり、そのすべてを決められる。が、しかし、本当の神ではないので、覚えていられない……。
島耕作シリーズは30年にもわたるロングラン作品である。もろもろを覚えていろというのはむりがある。
記憶があいまいなら確認しろ、と思われるかもしれないが、漫画家はとにかく時間がない。
さらに、過去の設定と矛盾することになるとしても、新しく思いついた案のほうが面白くなるならそっちを選ぶ、と考える作家も多いと思う。思いついたら、描かずにはいられないものだ。
一貫性がなくなる、という指摘はあるだろうし、そんな姿勢だから漫画は、小説や映画ほどの文化的地位を築けないのだ、という声も聞いたことがある。
だが、やはり漫画は、「いま面白いかどうか」が一番大切だと考える。いま、というところがすごく大事。
「面白くないけど、これまでの伏線を回収するためには必要だった」なんて位置づけのエピソードは読みたくないし、競争が激しい世界なので、そんな作品は、生き残れない。
想定とはまったくことなる展開になった、と作家がのちに振り返るなんてことは、本当によくある話だ。
いまを面白くすることだけを考えてやりすぎると、次回の展開に困ることになる、なんて怖れも生まれるのだが、そこは、「次回の自分はもっとがんばってくれる」などと問題を先延ばししたりする。
もちろん、先の先の展開まで計算しつくしてから矛盾のないように描く、という作家さんもいらっしゃって、その仕事ぶりには感嘆するしかないのだが、作者が自転車操業的に展開する話を追いかける楽しさ、というのも、漫画の醍醐味であると感じる。
『ジョジョ』シリーズの荒木飛呂彦先生は、「四部のボス、吉良吉影が強すぎて、倒せないかもしれないと思った」と話してらっしゃった。いやいや、先生が生んだキャラじゃないですか、と思いつつ、作者自身も必死に手探りで戦っているからこそ、読者も手に汗握るような展開が生まれるのかもしれない。
私なんぞがやれば、読者が納得してくれない、無理やりな勝敗のつけ方になりかねないが。
一番好きなキャラなんですけど!
いくつか、作者に「忘れられたもの」を振り返ってみよう。
・て、天さん……!?
『ドラゴンボール』の通常版は、全42巻の背表紙が、一枚の絵としてつながっている。
主要キャラがずらりと並んだとても魅力的な絵で、これは、「一冊でも抜ければ絵がつながらなくなるため、全巻そろえざるをえなくなる」という編集側のアイデアから生まれたものであり、あの世界的なヒット作も、初期は人気を得るために必死だったことをうかがわせるエピソードだ。
だが、つながった絵をよく見ると、ヤジロベーという、さほど人気もなさそうなキャラが「二回」でてくる。のちに単行本の中で鳥山明先生御自身が、「気づかずに二人描いてしまいました」と謝っていらっしゃるのだが、私としては、初期のライバル、天津飯がいないことに驚愕した。一番好きなキャラなのに……。
トランクスもいないので、なかなか謎のキャラセレクトである。まあ、鳥山先生は自作のキャラに思い入れがないというのは知られた話ではある。
初期の展開で圧倒的存在感を見せた「桃白白」(タオパイパイ)について聞かれたときに、「タオパオパイ……?」とうる覚え状態になってらっしゃったくらいだ。初期のほのぼのとした作風の中で、本気の「殺意」を感じさせる忘れられないキャラなのだが。
『ドラゴンボール』は、のちに表紙を一新した新装版(完全版とは別のもの)がでた。これも背表紙がつながっているのだが、こちらにも、天津飯が、いない! なんと、相棒のチャオズはいるのに!
ちなみに新装版は表紙を一新しただけなので、ヤジロベーは一人になっているどころか、いなくなっているにもかかわらず、「気づかずに二人描いてしまいました」という鳥山先生の謝罪文は載っている。大先生を無実の罪で謝らせているようなものではないか…。
・Amazon
横長の一枚絵、リトグラフなんかにしたら、売れると思うんだけどなあ。
・かっこ悪くてあの世に行けねーぜ
『ジョジョの奇妙な冒険』からも、有名な「忘れられたもの」を。
第一部でウィル・A・ツェペリは「結婚もしなかったし、家族も持たなかった」と語るのだが、第二部にその孫、シーザー・ツェペリが現れる。
のちに鳥山明先生のときとおなじく、荒木飛呂彦先生の謝罪文が単行本に載るという事態にまで発展するのだが、私は、ファンならこう考えて気づかないふりをしたらどうかと思った。
荒木先生が設定を覚えてたら、あのシーザーには、会えなかったかもしれないんだよ?
歴代ジョジョの中で、おっさんの支持率がもっとも高いのが、二部だと感じている。その立役者のひとり、シーザーは欠かせない存在だった。
シャボン玉のように華麗ではかなき男よ。
・これはわかるまい
超有名な「忘れられたもの」を二例あげた。てめぇにいわれなくても知っとるわ! と憤慨されている方も多いことだろう。
よって、超難易度の高い、だれも知らないであろう例をあげておく。私の知るかぎり、気づいているのは……、まあ、あとで述べる。
作品名をあげず、まずはシーンを見せよう。あまりにあきれたので、かつ、一読者として腹立たしささえおぼえたので、著作権に配慮して画像を貼らないこのブログには珍しく、スキャン画像を貼るッ!
奥にいるキャラを、ジョルジュという。彼は剣を持っているが、
手前の男のふしぎな力によって剣を折られてしまう。
大ピンチ。これは負けだ、と悔しがるジョルジュ。
ところが、つぎのページをめくると、手前の男が狙撃手に撃たれ……
ジョルジュに加勢が加わったと思ったら、そのつぎのコマ……
…………。
お気づきだろうか。
ジョルジュの折れたはずの剣が、つながっているのであるッ!
剣が折れたカットの、つぎのページでの出来事である。たった1ページで、この漫画の作者は、「剣が折れたこと」を忘れたのである。そしてその剣で手前の男を貫くのだ。
おいおいおい、ほんの1ページ前のことを忘れるなんて、お前の記憶力は、三歩あるくと忘れるというニワトリ並みか? 三コマ進むと忘れる、みたいな感じか?
まったくもって、アホである。どうしようもない、アホである。
作者の名は、石岡ショウエイ、というらしい。
………………。
はい、私です。
これは私が9年前にジャンプで描いていた『ベルモンド Le VisiteuR』という漫画です。本当にすみませんでした。
当時の私はまったく気づいてなくて、数年後に、ある熱心なファン、Mさんからの指摘を受け、やっとその事実に気づいたのでした。まことに恥ずかしいかぎり。
この黒歴史漫画は現在、『漫画図書館Z』というサイトで無料でご覧になれます。
スマホの方は、こちらに専用アプリがあります。『マンガ図書館Z』は無料で読める漫画の宝庫です。いつかオススメ作品のまとめでも書こうかな。
今回の記事において、鳥山明先生、荒木飛呂彦先生という巨匠を、ボケの前フリのように使った罪をお許しください。
設定なんてないにひとしい自転車操業マンガ
『ペットボトルくん』
ついに30話達成! 一日も休まなかった!
ごく少数だが、楽しんでくださっている方もいらっしゃる気配。
がんばろう。
目指せ、50話。
……いや、とりあえず40話。
おまけ
ねこ、描いた。
最近は更新時間が日付が変わる寸前。
まちがいなく、自転車操業である。