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紙面掲載した書評をご紹介 「図書新聞」の書評コーナー

いま「近代」を再考する

「社会」が生成していくプロセスの「厚い記述」の実践
対談:遠藤知巳×成田龍一

■遠藤知巳著『情念・感情・顔――「コミュニケーション」のメタヒストリー』(以文社)が上梓された。大変な労作である。本書をめぐり、著者の遠藤氏と、歴史学者の成田龍一氏に対談していただいた。(対談日・3月15日、東京・神田神保町にて。須藤巧・本紙編集)

■「超越論的視点の封印」が際立つ

成田 『情念・感情・顔』は一つの事件、出来事のような著作です。長い射程と内容の壮大さをもち、方法的な工夫が凝らされていますが、何よりも「近代」についての詳細な記述がなされている点に惹かれます。別言すれば「社会」が生成していくプロセスの「厚い記述」の実践です。「近代」とはいかなるものか、これまでたくさんの議論がなされてきました。とくに、冷戦体制崩壊後の一九九〇年代以降は、従来の「戦後」と結びついた近代把握に対し、あらたな関心からあらたな近代批判の視点も出されてきました。本書は、それらを批判的に踏まえたうえで、近代像を叙述し提示しており、その力業が光る著作だと思います。

 ここでは一六世紀から一九世紀までが対象とされ、「初期近代」を含めた近代の叙述がなされます。一六・一七世紀を「情念の体制」、一八世紀を「感情の体制」、一九世紀を「顔の時代」と呼び、近代のその三つの体制のそれぞれの形成と構成とともに、それが転態するプロセスをあわせてたどっていきます。構造と過程をあわせ描くのですね。しかも、その際に、それぞれの体制の言説構成、内部機制、意味世界を分析対象とし、方法的な工夫を凝らしながら、叙述します。「言説史」の領域から、近代に関しての全面的な展開を実践するという、大変な著作です。この著作を読み解くことは、近代についての再考を促すとともに、近代の解釈をめぐる過程の再点検ということになるでしょう。

 第一に遠藤さんの方法と問題意識を議論し、それから次に、第二の点として、出されてきた歴史像を手がかりに、本書の意義について論じていくことにしましょう。まずは、第一の点です。本書の近代の分析には方法的工夫がなされていますが、同時に、それは先行する近代をめぐる議論への方法的な批判でもあると思います。とくに近年の動向への批判が顕著です。

 本書で際立つのは、なによりも「超越論的視点の封印」です。「外部」や「事後」といった視点から、近代を論ずることへの禁欲があります。むろん、この点は近年の近代解釈、とくに批判的解釈では、近代のメタ議論として意識されていることです。しかし、遠藤さんにしてみれば、たしかに「メタ近代」を論ずるところに行き着いているけれども、メタといった瞬間に易々と「外部」に立ってしまい「事後」の視点を密輸入しがちである、という批判があるように思います。すなわち、メタの指摘にとどまらずに、メタをあわせ歴史化することを図る著作であると読みました。ことは込み入っており、近代が社会を構成していく過程にすでにメタの認識が含まれていて、メタの指摘だけでは凡庸で、そのメタを歴史化し、かつそれを取り込んだ近代の叙述をなそうとした、と思うのですね。

遠藤 のっけから、結論が出てしまったような本質的なことをいわれてしまいました(笑)。とくに、「超越論的視点の封印」という点を読み取って、評価していただいたのは大変に嬉しいです。

 たしかにこの本の背後では、「理論的」といってよいようなさまざまな思考が働いています。それらは、従来の近代の書き方に対する疑いと深いところでつながっています。しかし、「近代に対する既存の図式をひっくりかえしてやろう」みたいな狙いが先にあって、後から戦略的に方法を考えるというやり方はしていません。具体的な主題形象の多型性を追うことで考えていくやり方自体が「理論」なのですね。その意味で、「超越論的視点の封印」というのは、理論的構えであると同時に、あるいはそれ以上に、自分にとってごく自然なやり方なのだと思います。

 自然なものとして現代にも流通している見え方や意味づけの不思議さを、「嘘だ」とイデオロギー批判をするのではなく、時間を戻してそれらがいかに成立したかを問えば、隣接するジャンルや主題群を巻き込みます。必然的に当初の形象を多型化したり、様々に分解したりすることになります。歴史家の成田さんに「叙述」といっていただけるようなものかは分かりませんが、ずっとそういうやり方をしてきました。

 いささか異形でしょうが、これもまた社会学であると考えています。社会学は「全体社会」を扱えるとする学問ですが、その理論的発展のなかで、社会の全域が見えるとすることが何をしているかが問題になっていきました。かつては、社会を外から俯瞰する視点を疑問なく持ち込む、T・パーソンズみたいなやり方が主流でしたが、こうした立場が理論的に崩壊して以降の社会学は、自分のやっていることが社会の「内部観察」であることを認めざるをえないことが出発点になります。とりわけ日本では、そこに、フーコーや社会史の導入が重なります。内部観察の問題と近代の具体的な歴史的記述が結びつく動きがありました。

 この一つの重要な結節点として、近代の内部的差異を析出していくという課題が浮上します。一九世紀に誕生した「社会学」自体も、当然そのなかに繰り込まれるべきものになります。じっさい、一九世紀と社会学の関係については、言説史的な知見を取り込みつつ、最近、かなり優れた研究が出てきています。一言でいえば、コントとデュルケムのあいだの社会的文脈をきちんとつなごう、というものですね。とはいえ、一八世紀以前は相変わらずボヤッとしたままです。社会契約論や市民社会論の一般的なイメージが一方にあり、他方では社会史の知見を二次利用する。その組み合わせで処理するというのが、大方のパターンでしょう。この本でいうなら、一八世紀的社交がどこまで「社会」である/ないのかを、意味空間内在的に問うような指向は乏しい。

 さらにいえば、「旧ヨーロッパ」対「新ヨーロッパ」という問いの立て方があります。一九世紀型ヨーロッパとそれ以前とを別物として切断する。この発想は、ドイツ系の概念史をはじめとして、文化史や政治史、社会史のあちこちで姿を見せています。フランス革命を境にするという点で、ヘーゲル的構図の執念深さを感じます。社会学が一九世紀に生まれたのはたまたまなのかもしれませんが、社会学から近代を考えていくとき、一九世紀で切るというこの構図と、結果的に共振するというか、なぞってしまうところがあります。

成田 「学知」形成の検討をぬきに、その学知で事象を説明することはできないということは、いまでは自明となりました。社会学を例に論じられましたが、歴史学でも同様です。別言すると、入口は一九世紀にあり、一九世紀の解釈とともに、一九世紀を意識的・無意識的に規準としてきたということ。

 一九世紀の「知」の概念の尾っぽを、人文の学知はそれぞれに有していますが、それをそのままなぞることはできないという反省の動きが、さまざまに出てきます。さきに、一九九〇年代以降の動向といったとき、念頭に置いていたフーコーや社会史の実践、カルチュラル・スタディーズの提起などがそれです。ぼくもまた、それらを学ぶことによって、従来の近代論や近代批判とは異なるやり方を考えてきました。しかし、遠藤さんにとってはそれさえも「自明」であって、そのこと自体をも折り込んだ近代の把握が目指されるということですね。そして、一八世紀以前を視野にいれるという方向に赴きます。

 「具体的な主題形象の多型性を追う」といわれましたが、ここでの本書の立ち位置は、三つあると思います。一つは「記述」の作法を問題にし、そのときの「視点」を歴史化する営み。もう一つは、その立ち位置によって、一九世紀に至るまでの歴史を三つの体制の転態として問題にすることであり、そして、三つ目には、そのことを通じて、社会学の「知」を歴史化しつつ、あえて近代を書き直すという立ち位置です。一九世紀に誕生した社会学を揺るがすことによって、いまに通ずるように社会学を論じ直そうとするということを感じます。

遠藤 「視点」の問題は、一つにはフーコー批判です。彼は一種の現象学的な「視線」で停止させるところがある。フーコーもたしかに記号の秩序を問題にするのだけれども、それを外から見る視線の秩序を、何というかそこから剥がせるものとして書いてしまう。妙に客観科学的な「観察者」の権能を持ち込みがちだという違和感がずっとありました。『言葉と物』における「特徴」が、生物学や解剖学が構造化される一八世紀半ば以降の特徴記述に限定されているのがその典型的な表れです。しかし、そこに気持ち悪いかたちで視線を内在化させることで、一七世紀の「キャラクター」は、記号でもあり実体=特徴でもあるような不可思議な混合物になっています。裏返せば、そこから視線がいわば連続的に自律しそこねていくような営みの集積がある。この本では、そうした過程を追いました。

 「記述」についても、色々な含意がある問題提起と思いますが、フーコーの場合だと「知」の系譜、考古学というかたちをとる。これはすごく鮮やかで、「方法論」とか「ジャンル」が安定して再生産されるような地点には向いた方法だと思います。そのかわりに、方法論の「抑圧」以前のルネサンス期が、反転したユートピアであるかのような書き方にすうっと横滑りする。そうではないかたちで、安定した方法論やジャンルの「外」にあるような多型性を捉えたいという関心があります。

成田 フーコーを受容しつつ、そのことの先に行こうとする姿勢ですね。ある世代以降は当然でしょうが、ぼくなどは、フーコーの衝撃にいまだにたじろいでいます(笑)。いまの説明は、情念という領域を対象とすることの意味でもありますね。人間の内面を問題にするとき、「知」というかたちであらわれてくるのではない、まだ名づけられないようなものに着目し、そこから、情念や感情の体制を指摘するということ。

 また、記述の視点と同時に、その「形式」も問題にしていきます。そこで浮上してくるのは「修辞学」「自体的記号(キャラクター)」であり、あるいは「観相学」です。これらは分析対象であるとともに、方法的な拠点ですね。

遠藤 説明のためのメタ言語をなるべく安易に持ち込みたくないと思ったとき、メタ言説自体の萌芽がそんなに無理なく指差せる点に、西洋近代を扱っている意味があると思います。

 いま挙げていただいた修辞学は、一七世紀までは、多くの教本が書かれているだけでなく、あちこち変な場所にばら撒かれている感じがあります。一種の「エコノミー」といいますか、一六、七世紀において、ある種のメタ言説に近いものとして働いていたのでしょう。しかし、何かの条件が足らなかった、もしくは多すぎたから一八世紀以降に引き継がれずに変形してしまった。修辞学は一例で、言説を分析するうえで、メタ言説や理論の萌芽自体を同時代に投げ込むかたちで記述することが重要です。それは同時に、違うメタ言説もありえたことを浮上させることでもあります。フーコー的系譜学は、「これがこう変わりました」と書いた途端に、何か静態的なパラダイム転換に見えるところがあります。複数の終わり方があると示すことで、それを何とかして避けられないものか。

成田 なるほど。この著作は、内面の運動を動態的に捉えようとします。言説は、一つの方向に進むのではなく、たくさんのものが同時に湧き上がり、それらの対抗や癒着のなかで構成され、体制となりゆく過程を動態的に描いてみせました。『言葉と物』を思わせるような営みですが、しかし、それを包摂しようともしています。フーコーには、それまでの近代解釈――記述からのドラスティックな転換――批判がありますが、それをも近代の営みとして把握しようとする実践的な試みです。構造を指摘して事足れりとするのではなく、過程として叙述する強靭さを感じます。

遠藤 「近代批判」自体が、一方向のベクトルを構成するといいますか……。「近代化」という一方向のベクトルを批判しようという構えが、反転した一方向のベクトルへと引き込まれ、結果的に、近代批判が近代の部品になってしまいます。