夏が近づくにつれ、第二次世界大戦を題材にした映画のテレビ放送が増える。今月は「連合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実」、来月は「パール・ハーバー」など続々とラインナップされている。昭和16(1941)年12月、日米開戦。山本長官が指揮する真珠湾攻撃で日本は勝利するが、ミッドウェー、山本長官暗殺などで次第に劣勢へ…。近年の戦争映画は新たな歴史証言などを反映させ、新事実を伝えるが、先日聞いた戦艦大和元乗員の証言には過去のどんな戦争映画でも描かれていない事実が明かされ、愕然とした。沖縄特攻の数少ない生還者の衝撃的な証言をお伝えしたい。

最新鋭戦艦「大和」の測距儀兵に


 戦艦大和の乗組員だった北川茂さんは現在90歳。三重県で暮らしている。

 大正13(1924)年、名張市で生まれた北川さんは昭和17年、海軍入隊後、戦艦「日向」の乗員となる。

 「日向の船内は狭く、油臭かった。風呂も1週間に1回しか入れず、いつも掃除ばかりさせられていた…そんな思い出しかありません」と北川さんは苦笑しながら振り返った。

 その後、神奈川県の横須賀海軍砲術学校で学び、20年2月、日本海軍の旗艦(フラッグシップ)として建造された最新鋭の戦艦「大和」の測距儀兵に任命される。

 「大和の乗組員に選ばれてとても光栄でした。老朽化した日向と違って、建造されたばかりの大和は船内は広く、とても清潔で、寝室も日向ではハンモックでしたが、大和はベッド。風呂も3日に1度は入ることができ、船内での生活はとても快適でしたね」

 測距儀兵とは艦橋の一番上にある測距儀で、敵艦隊の位置を確認、距離を測る担当で、北川さんは若手として他の乗員へその数値を知らせる伝令が任務だった。米艦隊も恐れた大和最大の武器、主砲46センチ砲も北川さんの伝令がなければ発射できない、という重要な役目だ。

すべてが極秘だった


 当時、大和は建造を含め、その作戦行動などすべてが極秘裏に進められていた。北川さんたち乗員にも、その目的は告げられないまま、訓練が行われていたという。厳しい訓練が続く中、3月25日、乗員に上陸許可が出る。

 「米軍が沖縄上陸寸前の状況で、大和がいずれ沖縄へ向かうであろうことは乗員みんなが薄々気付いていました。上陸前、乗員は天皇陛下から恩賜のたばこをいただいたのです。私は、やはり沖縄特攻は近い、これが最後の上陸だと覚悟し、三重の両親へたばこを送りました。私はたばこを吸いませんでしたから。恋人もいなかったので誰とも別れのあいさつもせずに…」。北川さんが広島時代、同じ下宿で暮らした仲間7人のうち5人が沖縄特攻で戦死したという。

日本で唯一のレーザー加工技術を駆使した木製模型の「1/250 戦艦大和」
日本で唯一のレーザー加工技術を駆使した木製模型の「1/250 戦艦大和」
 つかの間の上陸で、家族たちと最後の別れを交わした乗員たちが上乗し、大和は呉港をひっそりと出港。4月1日、北川さんは大和の艦橋の一番上で、駆逐艦「雪風」など10隻が山口県の三田尻沖で集結する光景を目の当たりにする。

 「大和での私の持ち場は艦橋の一番上、ちょうどその真下に艦長が陣取り指揮していました。その会話すべてが私の耳に自然に入ってきました」。北川さんは大和最期の姿を艦橋の一番上、艦長の声を真下に聞きながら“目撃”した一人だった。

物資が枯渇する中、最後の特攻へ


 士官ではない乗員はふだん艦内のエレベーターを使えなかったが、北川さんたち測距儀兵は、トイレ休憩などで船内へ降りる際、エレベーターの使用を許されていたという。トイレは艦橋の下にしか設置されていなかった。

 「夜、海上で停泊中、私はトイレに行きたくなりエレベーターで艦橋を降りていきました。すると暗闇の中、甲板の両舷に駆逐艦が横付けされ、乗員がホースで大和から燃料を抜いて給油しているのです」

 北川さんは驚き、「何をしているんだ」と問うと、駆逐艦の乗員は「大和は片道燃料しか必要ないから、駆逐艦に補給していいと言われたんだ」と答えたという。

 沖縄特攻に向け、艦長同士で燃料を分け与える同意を得ていたということだろう。

 当時、日本海軍には軍艦、戦闘機など兵器はもちろん、燃料もほとんど残っていなかった。資源が枯渇した日本海軍の駆逐艦など護衛艦には、菜種の油などが代替燃料として積まれていたという。菜種の油などは燃料効率が悪く最大船速で海上を走ることができない。

 大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に臨む準備をしていたのだ。

極秘、2日前に…やはり「特攻」だった


 8月の終戦記念日が近づくにつれ、地上派、衛星放送ともに戦争映画のラインナップが増える。近年明らかになった元軍人らの証言などが基となって作られた作品は、戦争未経験の現代人にとって示唆に富むが、戦艦「大和」の元測距儀兵、北川茂さん(90)=三重県在住=の証言は過去のいずれの戦争映画でも描かれたことのない衝撃的な内容だった。

 昭和20(1945)年4月1日、山口県の三田尻沖に極秘作戦のもとに集結した大和を旗艦とする艦隊は沖縄特攻に向け、準備を進めていた。

 「大和は片道燃料でいいから、油を分けてもらっているんだ」。海上に停泊中の深夜、大和の両舷に船体を横付けし、ホースで給油作業を行う駆逐艦乗員の言葉を聞き、北川さんは愕然(がくぜん)とする。

 大和は自らが積んだ精製純度の高い燃料を護衛艦に分け与え、最期の特攻に挑む準備をしていたのだ。

 以前、私は「大和は片道燃料で出撃した…」という内容の記事を書いたところ、読者から「史実では大和は往復燃料を積んでいた。特攻ではない」と抗議を受けたことがある。

 『大和の性能と積載燃料から往復可能』というデータや証言が掲載された資料を根拠に指摘してきたのだろう。こういう“鬼の首を取った”ような抗議を受けることは記者にとって宿命だと痛感している。だが、同時に、戦史の資料には記録されてこなかった北川さんたち兵士の“生きた証言”こそが、歴史の真実を伝えるのだと信じたい。

戦闘開始、その直後に被弾


 5日午後3時。「大和の甲板に集められた総勢約2600人(3分の1の乗員は持ち場待機)を前に伊藤整一司令長官が言いました。『特別攻撃隊を命ず』。これまでの極秘作戦がついに明らかになったのです。私たちは初めて特攻を知らされました。解散を告げられた後も、私の足は甲板にへばりつき、動きませんでした。周りを見ると、顔面蒼白でした…」

 大和を旗艦とする艦隊は沖縄を目指し、洋上を進む。7日午前11時。「いよいよ決戦が近づいてきました。通常正午からの昼食が1時間早められ、私は配られたおにぎり2個とたくあん3切れを食べました」

 正午。北川さんは「敵機発見!」の合図で戦闘開始を確認する。その直後、後部艦橋に2発の直撃弾を受ける。すると軍刀を杖に、負傷した乗員が「後部艦橋の総員死亡」と連絡にきた。後にこの乗員も戦死したことを北川さんは知る。

「魚雷をわざと命中させバランス取る」


 米軍は爆弾では不沈艦の異名を誇る大和の撃沈は無理だと判断、魚雷攻撃を左舷に集中させる。

 「魚雷は次々と命中しました。その度にもの凄い反動で揺れるのですが、船内にいる乗員にはその理由が分からない。『なぜ揺れるのですか』という伝送管からの問いに、上官は『大和の主砲を発射する反動だと伝えておけ』に指示していました」

 左舷への集中攻撃で大和は大きく傾く。そして、北川さんは自分の耳を疑うような声を聞く。

 右舷に攻撃された魚雷を大和がかわすと、「司令長官が『艦長、右舷の魚雷は回避せず当てた方がよかったんじゃないか』。有賀幸作艦長は「そうですね」と話す声が聞こえてくるんです。自分の船にですよ。しかし、よく考えると、左に傾いた大和を復元させるため、右舷に魚雷を命中させてバランスを取れないか、と考えていたようなのです」

 左旋回しかできない“瀕死”の状態になりながらも、司令長官や艦長は最後の最後まで打開策を見いだそうとしていた。特攻をあきらめようとしていなかったのだ。そんな悲壮な覚悟を北川さんは上官や同僚たちが次々と命を落とす極限の状況で聞いていた。

 大和の主砲の砲弾は1個約1トン。弾薬庫から主砲まではエレベーターでなければ運べない。「弾薬庫から『艦長、船体の傾きを直して下さい。砲弾が運べません』という悲痛な声も聞こえてきました。艦長はそのたびに「よし、分かった」と答えていましたが…」。結局、大和は主砲を1発も撃ち返せず沈んでいった。

 午後2時20分、大和は航行不能となり、「総員退去命令」が出る。しかし、測距儀にいた北川さんは「艦橋の一番上ですから海面まで数十メートルはあり、怖くて飛びこめませんでした」と言う。大和が一気に傾いた反動で、北川さんは測距儀にいた同僚と2人、海面へ投げ出された。北川さんは沈む大和とともに海底へ引きずり込まれていく。「このまま溺死か」と覚悟した瞬間、水中で大爆発が2回起こり、その反動で海面へ押し上げられたという。

大和は沈没も「極秘」…少ない生存者も孤島に隔離


 間一髪、溺死を免れた北川さんは同僚と2人で木切れに捕まり、救助を待つ。しかし、助けにきた駆逐艦3隻の内、2隻が引き返し、雪風だけが残された。日が沈む寸前、木切れの上で、北川さんは同僚と手をばたつかせ、波しぶきを上げて必死で合図を送り続けた。ようやく雪風の甲板の上で双眼鏡を見ていた乗員が、北川さんたちを発見、2人を収容すると同時に雪風はその場を離脱した。

 すでに日が沈んでいたが雪風は船内の電灯を消して全速力で航行。北川さんたち乗員には「一切声を出すな」と指示された。

 米潜水艦の追尾をかわすためだった。「ようやく救助されたと思ったのもつかの間、日本へ帰るまで生きた心地がしませんでした」

 北川さんたちは長崎県の佐世保港へ帰港するが、「島へ連れて行かれ、そこから出ることを許されず、箝口(かんこう)令がしかれました。大和の沈没は極秘扱いだったのです」と北川さんは語った。