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スポーツとアート

SPORTS and ART くろすとしゆき

初めてデザイナーが手掛けた公式服装

日本人の戦後意識を払拭し、世界に新たな日本像を印象づけた、東京オリンピック。晴れの開会式を飾った日本代表選手団の「赤いブレザー」は、大いに話題となり、その後の文化や風俗にも多大な影響を与えていった。この公式服装を手がけた服飾アーティストこそ、日本のトラッドファッションの生みの親・VANの石津謙介。氏の右腕として活躍した、くろすとしゆき氏に当時の話をうかがった。
協力:秩父宮スポーツ博物館

1964年の東京オリンピックで皆さんが思い起すのは、開会式で日本代表選手団が着用した赤と白の上下の公式服装でしょう。これは、「デザイナー」という肩書きの人間が手掛けた、初めてのものでした。東京オリンピック以前は、「デザイナー」という肩書きすらありませんでしたから、テーラーなどが作っていたと聞いています。

当時、日本代表選手団の服装には、平常時に着用するブレザーや、競技用のユニフォーム等が用意されましたが、開会式などで着る公式服装のデザインを依頼されたのが、VANの社長だった石津謙介です。

石津が考えたデザインの基本は、ブレザーにパンツというアイビースタイルです。当時、ブレザーの型は4つ。シングルかダブル、2つボタンか3つボタンです。石津の考えは、最もスタンダードな「3つボタンのシングル」で決まっていたようです。あとは、色をどうするかでした。

ブレザーは機能もさることながら、見栄えが重要です。その国の象徴でありながら強そうに見えること、そして、一着で見ても集団で見ても、存在感とインパクトが必要です。いくら一着で素敵な服でも、集団になるとパッとしない服では仕方ありません

石津はデザインするにあたって、「今までのオリンピックの公式服装を全部調べろ」と言いました。しかし当時、国会図書館を探しても資料など出てきません。「いくら探してもデータがないんですが、どうしましょう・・・・・・」と報告すると、「では、赤にしよう」という答えが返ってきました。すでに石津の頭の中には、「日の丸の赤」のイメージがあったのだと思います。

それに、ブレザーの語源である、「blaze =炎」も考慮したのでしょう。19世紀末、オックスフォード大学とケンブリッジ大学対抗レガッタで、オックスフォード大学のボート部員が全員で真紅のジャケットを着ていたところ、水に映えて鮮やかな様子を見て「炎のようだ!!」と誰かが叫んだことから、「炎=Blaze」が転じてブレザーと呼ばれるようになったという話があります。

石津は、オリンピックの公式服装として、ジャケットは金ボタンの赤のブレザー、パンツとスカートと靴は白、ネクタイは紺に赤のストライプというスタイルを提案しました。

東京オリンピックの開会式をテレビで見た国民には、衝撃が走りました。

「日本男子に赤い服を着せるなんて何事だ。けしからん」。敗戦を引きずっていた日本国民からはこんな声が多く聞かれました。

ユニフォームを仕立てたあるテーラーには抗議が殺到し、その店の主人はショックで入院したという話も聞いています。しかし、この衝撃がその後の日本のライフスタイルを大きく変えることになったのです。

くろすとしゆき

日本代表選手団が着用した赤いブレザーを着るくろす氏

赤いブレザーの反響

日本にアイビーという言葉が入ってきたのは、1954年頃。アイビーとは、アメリカ東部にある私立大学のグループ「アイビー・リーグ」の学生の間で広まっていたファッションで、その斬新なスタイルに学生だった私たちはすぐに飛びつきました。

1955年には、仲間たちとアイビークラブを結成し、ユニフォームとして赤いブレザーを作ったのです。当時、既製品はなく、テーラーに頼んで赤のフラノ地で作ったのですが、その際、「本当に赤でいいんですか?」と聞かれたのを覚えています。

赤いジャケットを着ていると人目を引くのが快感でしたが、実際には恥ずかしくてなかなか着る機会がなかったですね。小さなパーティで仲間と示し合わせて着る程度で、実際には街を着て歩く勇気はありませんでした。

その当時、ジャケットとパンツというセパレートは少なく、オシャレといえばスーツ。色は黒に近いグレーしかありません。大学生の基本は学ランの学生服で、学ランを脱いでおしゃれをするというと、スーツしかありませんでした。

石津は、金ボタンのブレザーにボタンダウンシャツ、コットンパンツといったスタイルを、アイビーファッションとして提案していましたが、アイビーという言葉を知っていたのは、ほんの一握りの若者だけ。ブレザーは当時、スポーツ選手が着る特殊な服というイメージしかなく、ブレザーを着て街を歩くなんて「頭がおかしいんじゃないか」と思われていました。デパートに持っていっても「こんな服、誰が着ると思ってるんだ」「金ボタンを取り換えたら仕入れてやる」等と言われました。

しかし、東京オリンピックの開会式が終わった直後から会社には、ブレザーを仕入れたいという店からの電話が鳴り出したのです。金ボタンを取り替えろといったデパートの担当者からも「ブレザーを品切れにするな」と言われるほどの売れ行きです。

まず、最初に着始めたのは、武蔵美や多摩美などの学生やちょっとませた高校生などのティーンズでした。その後ファッション雑誌でブレザーとパンツのアイビースタイルが取り上げられると、そっくりそのままのスタイルの若者を街のあちこちで見かけるようになり、全国規模でアイビースタイルが流行し、ブレザーが市民権を得たのでした。


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